数学教育研究所 公式サイト Mathematics Education Institute Official Web Site
Jun.17
2012
受験生5つの誓い

遠い昭和の時代、ウルトラマンというヒーローが当時の少年たちを夢中にさせた。昭和 41 年 7 月~昭和 42 年 4 月にウルトラマン(初代ウルトラマン) が放映され、その後ウルトラセブン (昭和 42 年 10 月~昭和 43 年 9 月)、少し空いて「帰ってきたウルトラマン」(昭和 46 年 4 月~昭和 47 年 3 月)、この後 1 年ごとに「ウルトラマン A」「ウルトラマンタロウ」「ウルトラマンレオ」と続いた。

この中で「ウルトラセブン」以前を第 1 期、「帰って来たウルトラマン」以降を第 2 期と分けるのだという。ストーリーも後になると少しずつ単なる怪獣退治ではなくなり、人間関係をも描いたドラマ化もしていったようである。

さて、「帰ってきたウルトラマン」の最終回であるが、それまで自分がウルトラマンであることを隠していた郷秀樹が同居していた坂田少年に自分がウルトラマンであることを告げ M78 星雲に帰っていくシーンがある。
このとき、郷は少年に、「ウルトラマン 5 つの誓い」として次のような言葉を残して行く。

一つ、腹ペコのまま学校へ行かぬこと
二つ、天気のいい日に布団を干すこと
三つ、道を歩く時には車に気をつけること
四つ、他人の力を頼りにしないこと
五つ、土の上で裸足で走り回って遊ぶこと

坂田少年はこれを叫びながら去っていく郷、すなわちウルトラマンを見送った。

この話は今の受験生の言葉にするとどうなるだろうかと考えた。そして、それは次のようなものになると解釈した。

【受験生5つの誓い】
1. 腹ペコのまま勉強しないこと。
2. 天気のいい日は、たまには日の光を浴びること。
3. 道を歩くときは、問題を考えすぎて車にぶつからないこと。
4. 他人を頼りすぎないこと。
5. 紙の上でペンを走り回らせること(きちんと計算すること)

解説をしよう。

1.
勉強をするには、勉強をするための環境を整えよ。もちろん、空腹のまま、空腹を気にしてばかりでは集中できない。
しかし、空腹だけではなく、音がうるさい、勉強している机が散らかっているなどのことにも十分配慮すべきである。

2.
文字通り、天気のよいときには日の光を少しでもよいから浴びよう。受験生は建物の中にこもりがちである。ともすれば、一日中こもっていて、太陽を見ない日もあることだろう。
適宜、気分転換をすることが長く効率よく勉強をするコツである。

3.
一つのことに集中するのは大切だが、まわりが見えていないようではよくない。
外を歩くときは、車に気をつけるのはもちろんのこと、自分のことばかりを考えて電車の中で他の人の迷惑になっていないかなども注意すべきである。
自分だけがよいのではいけない。

4.
受験生の中には、人に頼りすぎる人がいる。
わからなければすぐに質問すればよいという人もいるが、質問する前に自分で解答を見つける努力もしなければならない。
学習において、自分で物事を解決する力は大切である。

例えば、辞書を引けばすぐに意味がわかるようなものでもわざわざ聞いたり、少し考えれば理由がわかる定理の証明を考えずに聞いたりしているようでは、受験生はいつまでたっても自立できない。

5.
受験生の中では、自分で考えて何も書かない人がいる。自分で自分の図を書き、自分の計算をして始めて力がつく。
受験生の質問で「そんなことは途中計算をしっかりかけばわかることだ」というものは少なくない。実際に書かないで、「何でですか?」という質問は非常に多い。
参考書なども眺めているだけではなく、自ら行動することが大切である。

昔のウルトラマンは結構よいことを言っていたものだと思った。

蛇足ではあるが、私が少年のとき「ウルトラマンごっこ」というのがあった。最後の決め技である「スペシウム光線」のポーズでもめたことがある。
スペシウム光線は例えばこれである。

「スペシウム光線」

どうもめたかと言うと、右手が前か左手が前かである。よくラジオ体操をするとき、見本の人が前ですると実際と左右が逆になる、それと似ている。
私は、左手が前で右手が後ろだと主張したのだが、そこで遊んでいた10 人くらいがみんな、右手が前だと言っていた。
なぜかというと、右手が後ろで左手が前ならウルトラマンの左手が光線で焼けるから。
というのが理由である。実際は、絵を見てわかるとおりだが、私の方が正しい。
幼稚園か小学校1年生くらいのときだったと思うが、そのころから
「人間はみんなで間違うものだ」
という教訓を得た(笑)。

Jun.17
2012
やっぱり数学の基本は

よく、「数学は計算じゃない」などと言う人もいるが、やはり試験場では計算力があるかないかは非常に大きい。

計算力という場合、
「多項式を整理する」とか「2次方程式を正しく解く」あるいは、「与えられた関数を微分する」
のように、「決められた手順を間違いなくこなす」というものを想定する人も多いが、もちろんこれだけではない。

例えば、極限 lim(x→0) sin 3x/x を求めるときは、

lim(x→0) sin 3x/x =lim(x→0)sin 3x/3x ×3

のように変形するが、このように

(与えられた式)= (作りたい式)×(調整部分)

のように変形することも計算力である。(作りたい式) というのが念頭にあり、それに向かっていくという計算力である。
そして、よく言われているように
(A) いくら正しいことを考えても、計算ミスをすると正解に達しない
(B) 計算力があれば、最短ルートの解法でなくとも、正解に達することができる
も忘れてはならない。

教室での生徒からの質問で、解法 A と解法 B がある問題で
「なぜこの場合は解法 A を選ぶのですか?」(★)
のように質問は多々ある。
それは、もちろん経験というものがあるからという理由もあるが、
「頭の中で、数手先まで計算してあるから」
ということもよくある。逆に、(★)のような質問をする生徒は計算力がない生徒であるが、本人は計算をあまく見ているか、計算力がないことを自覚していないのが大半である。
複数の解法があるときに、適切な解法を選べるためには、私の著書「数学の計算革命」にも触れてあるが、数式計算の「暗算力」を鍛えなければならない。
(どのように鍛えるとよいかは、「数学の計算革命」の中に説明がある)
計算力のない人は、上の(★)のような質問をするとき、よく何か「目印」のようなものがあって、どこを見ればすぐにわかるものなのかを聞いて来るが、(実際そのようなこともあることはあるが)、そういうことではない。

高校数学の計算は「因数分解」「平方完成」「部分分数分解」・・・・とあげるとおよそ 30 ~ 40 程度の計算をマスターしなければならないが、
計算方法を覚えただけでは不足で、ある程度は「頭の中でできる計算」にしなければならない。

今、これを冬期講習の講座として提案しているのだが、理解がないか、しがらみがあるかで実現しない可能性もあるので、そうなれば、こちらを使って web 上で講座を開こうかと考えている。

Jun.16
2012
なんでこうなるの?

このようなタイトルを見て、萩本欣一を思い出せる人は私と同じ年代かそれ以上の人だ。今回は、もちろんふざけて言っているわけではない。

文科省の定めた新課程の数学のカリキュラムについて、つくづくこれを作った人の常識が疑われると感じている。
というのは、前回の改訂のときもそうであったが、とてもカリキュラム作りに日本のベストメンバーをあてているとは思えないからだ。
文科省のカリキュラムっていつも「なんでこうなるの?」と言いたい気分である。

最近、私は、このカリキュラムに沿った教科書を書いている。もちろん「検定外」の教科書である。だから、余計カリキュラムの不備が目立つ。
いくつか取りあげてみよう。

今回は、各教科書とも「必要条件・十分条件」の扱うタイミングに苦労している。
・指導要領では、「数と式」の中の最初の方(式の展開、因数分解よりも前)で扱うことになっている。これではまだ説明するためのサンプルが少ないということと、高校数学に慣れていない段階(4月~5月上旬)なので厳しいのではと思う。大手の教科書ではこの順番になっていない。
・数研出版の教科書は、「数と式」の最後の節にある。タイミングとしてはまあよいのかもしれない。しかし、
「『必要条件・十分条件』がなぜ『数と式』なのか!?」
はなはだ不可思議である。
・東京書籍はそのあたりをよく考えてあり、別の章としている。したがって, 文科省のカリキュラムの通りなら、数学 I は 4 章構成であるが、東京書籍は 5 章構成である。こちらの方が理にかなっている。

「図形と計量」の余弦定理について、一言いいたい。これは、今回の改訂が理由ではなく、これまで受け継がれてきたことであるが、
余弦定理として、なぜ、

a^2 =b^2+c^2-2bc cos A

だけでなく、

a^2=b^2 +c^2 -2bc cos A
b^2=c^2 +a^2 -2ca cos B
c^2=a^2 +b^2 -2ab cos C

を書く必要があるのだろうか。これは、一つあればよい。
a^2 を求めたいとき、隣の辺の長さと向かい側の角の余弦で決定することが大切なのだから、それがわかればよいので 3 つ書く必要はない。

「a^2 が b^2, c^2 になったらわからなくなるのですべて書いた」

のであれば、そのような勉強をする人は辺の長さが p,q,r になると分からなくなってしまうではないか。

ちなみに、数学Iにおいて、文科省のカリキュラムでは、「数と式」が最初にあり、その次が「図形と計量」(主に三角比)、その次が「二次関数」最後に「データの分析」となっている。ところが、これまでは「二次関数」が「三角比」よりも先に学習していたためほとんどの教科書では(すべてをチェックしたわけではない)「二次関数」が先である。文科省はなぜ「図形と計量」を先にしたのだろうか。おそらく彼らなりの理由はあるはずだが。

また、「図形と計量」の最後に三角比を平面図形、空間図形の考察に活用すること、とあるが、各社とも空間図形の活用に苦労している。
そもそも、空間図形の活用を無理にここでする必要があるのだろうか。なお、空間図形については、数学 A にも似たような単元がある。

まだ、数学 I だけでもいくつか気がついたことがあるのだが、今日はこの辺にしておく。

Jun.10
2012
「どうやったら思いつきますか病」

時代とともに人の考え方は変化するのは当然である。それは、子供と子供を育てる親にもあてはまる。

私の少年時代は昭和 40 年代~50年代であるが、その当時の親の世代は、戦前に少年期を過ごした人たちであり、戦前、戦後という大変革があったため子供が変化することは割と簡単に受け入れられたようだ。
これに対し、1990 年代と現在の 20 年間はこのような非常に大きな社会体制の変動はなかったので、子供の変化にはあまり関心がない人も少なくないのかもしれないが、実は大きく変化していると感じている。

その最近の高校生と接していると、20 年前の1990年代の子供たちと変わったなと思うことがいくつかある。
まず、今の高校生は、昔と比べると非常に親の目が行き届いている。それはよいことかもしれないが、ときにはやりすぎと感じているものもある。
例えば、夏期講習を始めて高校生が受けるとき、その親が塾・予備校に電話をかけてきて
「うちの子は人見知りなので、うちの子が授業の内容をわかっていないような感じでしたら、先生の方から声をかけてください」
などのことを頼む(ときには命令する)のは珍しくない。
このように、本来は子供自身で解決すべき問題を、親が先回りして解決してしまうと、その結果、子供は親の敷いたレールの上を進むだけになり、自分で判断し、主張をする機会がなくなる。そして、そのうちに大人になって自分で判断し、主張しなければならないときに、それまでの主張の手加減がわからないから、とんでもないことを急に主張したりする。

また、考える習慣・判断する習慣がないため、すぐわかることまで質問してくる。
例えば、ある生徒が普段習っている英語の先生に質問したとき、その先生が「その話は(別の)英語のP先生が詳しいから聞いてみるといいよ」と言ったとする。
そのときに、その生徒は P 先生を知らなかった場合に、「P 先生には何て聞けばよいですか」とか「P先生にはどういうふうに聞けばプリントをもらえますか」
のようなことを事細かく尋ねてくることは珍しくない。

これは、次のような会話に似ている。
高校生 A: 「お茶の水から新宿に行くにはどのようにするとよいですか?」
大人 B: 「中央線を使うといいよ。中央線は JR だから JR お茶の水駅に行って。」
高校生 A: 「お茶の水駅はどこですか?」
大人 B: 「あそこに見える駅だよ。」
高校生 A: 「いくらくらいで行けますか?」 (a)
大人 B: 「200 円以下で行けると思うよ。」
高校生 A: 「切符はどうやって?」
大人 B: 「自販機があるから。」
高校生 A: 「どの自販機で買えばよいですか? 」「どのボタンを押せばよいですか?」 (b)
大人 B:「・・・・」

この中でも (a), (b) の質問をする人はあまりいないだろうが、こと数学に関してはこれに相当する質問をする人が近年増えていることが気になるところである。

その数学の質問の一つは、ある問題の解答を説明したときに、

「(この解答)どうやったら思いつきますか?」

というものである。これは、(私の知る範囲では)少なくとも 20 年前にはなかった質問である。
もちろん、多少はこのような質問をするのは許されるとしても、つねにこのような質問を連発するようでは、数学の学習法を間違えていると思わざるを得ない。

このような質問については、次の 2 つのケースがある。

********************
[Case 1]: 「ある数を 2 乗して、そのある数を加えると 6 になった。ある数は何か」
という問題に対して、解答として 2 次方程式 x^2 +x=6 をまず作ったとする。このときに、

「どうしたら 2 次方程式を作ることを思いつきますか?」

という質問を返してくる。

[Case 2]: 円 x^2 +y^2=1 を C として、C の外部の点 P(a,b) から接線を引く。その 2 つの接点を Q, R とするとき、直線 QR の方程式は ax+by=1 であるが、これを説明する有名な方法がある。
(極線で検索するか、http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3301439.html などを参照)

それに対して、

「このような方法は自分には思いつきません」

という。
********************

[Case 1」と[Case 2」では状況が異なる。

[Case 1」は、
「マニュアル依存型」、「ノイローゼ型」
の人が多い。仮に「2次方程式を作ることの思いつき方」を教えたところで、それを試験中にいちいち実行するのだろうか。

歴史に例えるなら、先生が
「鎌倉幕府成立の1192年は『いいくに作ろう鎌倉幕府』と覚えよう」
と言うと、
「先生, どうやったら『いいくに・・・・』を思いつきますか?」
と返すのに似ている。

はっきり言うと、このような質問をする人はまだまだ勉強不足なのである。2 次方程式をある程度学んだのなら、自然と使う気になるくらいになってほしい。
「受験ノイローゼ」の人は、これまでに手痛い目にあっているものの、自分ではどうしてよいかわからないという人達であるが、そのような人達は知らず知らず
「考えない習慣」
が身についてしまっている。なぜなら、今まで自分で考えてきたことがことごとく否定されてきたからで、これは気の毒な一面もある。
このような経緯で、考えればすぐわかることなども質問してしまうようになる。

「Case 2」は、大半の人は「思いつかない」というのは仕方ないことではあろう。だから、「思いつかない」というのは素直な反応ではあるのだが、そういうものは、
「先人の知恵をその場で学べばよいだけ」
である。
先人の人達が何年もかけてようやくたどり着いた結論を提示されたとき、「そんなの自分には思いつかない」というのはほとんどの人には当たり前で、それよりも、そのアイディアを盗むくらいのつもりでいればよいだけである。

● どんなに難しいと思われる話であっても、まず「考えてみる」という段階を忘れない。
● それでだめなら、その知識を自分の知識としてキープすればよい

という、ごく当たり前の行動をとればよいのだが、この「どうやったら思いつきますか」という質問は、何でも親に頼りがちな高校生が多くなってきた現代らしい数学の質問である。そして、自分に自信を失った受験生の一部がたどり着く受験生の「病気」である。

Jun.09
2012
遠い未来か近い未来か 

受験業界に関わっていると、しばしば次のような問題に悩まされる。それは、

「近い未来をとるか遠い未来をとるか」

ということである。
数学よりも英語の方がもしかするとわかりやすいからまず英語の例で説明しよう。
高校で英語を学んだ人のその後は様々であろうが、大きく次のように分類されるのではないだろうか?
(A) 英語を語学として研究する人
(B) 英語を使って仕事をする人、日々の活動に英語を必要とする人
(C) 英語をほとんど必要としない人

英語を教える人は、普通(A)か(B)であろう。その中で「英語を教える以外の人」あるいは「受験英語を知らない人」は大勢いて、そのような人は
「なぜ、高校のうちに、社会に出て役に立つ英語を教えないのか」
と言って、「受験英語」を教える人を批判する人をよく見かける。そして、「受験英語はくだらない。もっと、高校生にとって遠い未来を見据えた教育をすべきである」と

いった趣旨の発言をする。また、
「どこの大学に入るかが勉強の目的ではない。」
とも言う。私は、この内容については理解できる部分はある。

数学に関しても同様である。もっとも、英語に比べて数学の場合は(A), (B)に関する人はかなり少ない。

英語の場合と同様に数学についても次の対立する2つの意見がある。

(a) [遠い未来型の意見]
高校生には、受験のための「要領」ばかり(?)の数学ではなく、社会に出て役に立つ数学を教えるべきである。そのためには数学の美しさ、楽しさを体験させたい。
内容がわかっていないのに、公式だけ暗記させて意味があろうか?
高校生が学習してほしいのは、遠い未来についても役立つような数学、あるいは数学的な考え方、論理力である。

(b) [近い未来型の意見]
現実的には、まず、大学受験を通過しなければ、高校生はその将来の夢を実現できないのだから、今は、受験に必要な数学を教えるべきである。「社会に出て役立つ数学」などは、受験を通ってからやればよい。
高校生に必要なものは、近い未来に必要な受験を通過するための数学である。

(※一般に、受験数学に関わっていない人は大抵は「受験数学」を誤解しているものである。)

これら (a), (b)どちらの主張にも理はあると思う。
ちなみに、私は (a), (b) を場所と相手によって使い分けている。
この「場所によって使い分ける」というのは、「NPO 等の活動」や「高校の現場指導の一部」では (a) の立場, 塾・予備校の場合は圧倒的に (b) の方のニーズがあるから基本は (b) (しかし, ながらクラスによっては一部 (a)) である。

どの分野・世界も「勝ち組」が支配者となり、「勝ち組」の論理でルールが作られる。数学の場合も例外ではなく、数学で成功した人が自分の体験談をもとに「(a) であるべき」とする一方で, 実際には (b) が必要な制度なのでこの矛盾はいつまでたってもなくならない。
(a), (b) どちらかに偏った意見の人は、今一度、自分とは違う方の考え方も理解するとよいだろう。そうすることで、今よりも高校生のための数学を提供できるような気がする。

Jun.03
2012
閉鎖的組織

 これまでに多くの「組織」を見てきて、最近特に感じることがある。

 「組織」の中には「通気性のよい組織」と「閉鎖的な組織」がある。このこと自体は多くの人は理解していることだろう。
やはり、怖いのは「閉鎖的な組織」で、「閉鎖的な組織」にいる人にはその中にいる自覚は少ない。何が問題かと言うと、「閉鎖的組織」ではその中でしか通用しないルール、あるいは常識ができるのだが、それが社会一般にあてはまると錯覚することである。

 そのような「閉鎖的組織」の一つとして私のまわりには「私立学校」と「塾」がある。私は、教員対象の「駿台教育セミナー」という講座を夏期、冬期、春期と担当させ

て頂き、多くの高校教員と接触しているのだが、そのようなところに情報を得るためにわざわざやってくる教員であればあまり心配はしない。しかし、一方で外に関心のも

たない教員も多くいる。そのような教員は学校単位で抱えているわけで、どのような学校がそれにあてはまるかというのは、実はその高校を卒業し予備校に通う生徒の質問

からわかる。私の中には、どのような高校がそれに当てはまるかは都内近郊の高校であれば頭の中に入っているが、もちろんそれをこの場で公表することはできない。ただ

、少しだけ言うと、そのような学校は、いわゆる「有名進学校」と受験という視点から見た「底辺校」の「両極端」に分布している。

 例えば、生徒の質問の中には、数学の内容からすればあまり重要でないことにこだわるものがある。それは、「書き方重視」のものである。
「『1次独立』という用語を答案の中で用いてよいのか」とか、「余弦定理より」と書くべきかとか、「合同式を表す『≡』を答案の中で使ってよいのか」とかばかりを気

にしていて、肝心の数学の内容には無頓着だったりする生徒から学校のことがわかる。
私の経験では、そのような質問を繰り返す生徒は大概は数学の本質に目を向けていないので、数学そのものをあまり理解していない。また、そのような書き方にこだわる学

校(ときには塾)はいくつかあることがわかっており、そのような学校に行って話をしたいとは思うのだが、閉鎖的組織のため「自分達のやっていることに問題はない」と思

っているようで実現しない。進学校の中には「だって自分達のやり方で東大に何人も入っているのだから」と考えているところもある。みなさんはおわかりだろうが、その

ようなところの生徒の多くは塾に通っているものである。
 一方、「底辺校」の閉鎖的な学校には、「勉強よりも大切なものがある」ということをよく口に出す。確かに高校で教えることは勉強だけではないだろう。生徒を甘えさ

せ、独立心、自立心の発達を阻止しているのには気がつかないでいたりする。自分達はこんなに生徒思いなのだから、とってもよい教員だと考えるのだが、それが教員の第

一であっては困るわけで、教員の第一は教科の内容をしっかり指導できなければならないことだ。

 このようなことは学校だけではなく、「塾」にもありうる。塾の中には、卒業生がその塾の講師になってそこで何年も「自給自足」を繰り返すものがある。そのこと自体

がすべて悪いわけではない。その塾に通い、今度は自分が後輩たちのために面倒をみようという思いは大切で、塾にとっても生徒にとっても宝である。しかし、その一方で

塾の中での間違いが永遠と受け継がれていく可能性もある。ある塾で「○○の定理」と言っているものが、そのような定理は世の中には定理は存在しない(定理として認識

されていない)というものはよくある。その塾の中では定理として存在するが、それが世の常識と思って疑わないところが問題だったりする。しかし、「自分達は正しい」

と勘違いをして外部の情報を遮断するから、何年も前進しないということが起り得る。

教育現場で、このような閉鎖的な組織にいると思い当たる人は、一度、騙されたと思ってでも外に目を向けてほしいと思う。

May.04
2012
ピアノ連弾組曲「夜の詩」(よるのうた)に関するお知らせとお願い

2012 年 4 月にカワイ出版から、企画出版として私の作曲した「ピアノ連弾組曲『夜の詩』」が刊行されました。

作曲したころは1980年代の後半から1990年代前半ですが、

・高校時代まで北海道に住んでいた自分の感覚を残す
・ピアノの連弾には、大きなコンサートに耐えうる作品が少ない、特に、プログラムのメインになるものはほとんどないので、そうなるものを用意したい

との考えから作られました。
この組曲は「1.夜景」「2. セレナーデ」「3. コロポックル」からなるもので、全部演奏すると17 分~18分くらいかかります。また、演奏会で私が弾く場合は、低音パートを私が弾くことを想定しており、その場合、
「1.夜景」は、ピアノの中級者
「2.セレナーデ」は、ピアノの初心者
「3.コロポックル」は、ピアノのセミプロ以上の人
が相手であるつもりで仕上げています。

演奏例はこちらにあります。

「夜景」
「セレナーデ」
「コロポックル」

また、楽譜の入手方法についてはこちらにあります。

(カワイ出版サイト)

こちらのサイトでは、楽譜の見本も見ることができるようになっております。

多くの人に愛される曲になってもらいたいと思っておりますので、是非、視聴するか、楽譜をお手に取ってもらいたいと希望しております。

May.04
2012
数学の質問に関するお願い。

数学に関する質問に関して以前からもいくつかの場でお願いしていますが、最近の状況から、再度御理解をいただきたいと考えています。

それは、
「メールでは数学の質問は答えない」
というものです。
主な理由は、

・メールでは数学の説明は難しい
(数学の説明は書かなければ伝わらないことが多々ある)

・メールでの説明は大変に手間がかかる
(尋ねる方は単に「なぜですか」でよいが, 答える方はその何十倍も説明になる)

・大勢の人に同じ対応をしたい
(一部の人にだけ特別な対応をとるのはその他の人に失礼であると考える)

です。
特に、以下の1つでもあてはまるものは一切お答えしないことにしており、原則返信もいたしません。

●名乗らない、挨拶がない
●私の著書に関し、著書に不備があることが原因ではなく、単に「教えて」という内容のもの (著書に誤植があったときに, それがもとで混乱している場合にはお答えしています)
●一般的な数学の話に関して、「数学を教えて」という内容のもの

例えば、いきなりメールを送ってきて、その内容が

「2行目の意味がわかりません。説明をお願いします。」

だけのものも多くあります。(この前後には何もない)
このような場合、まず、「あなたは誰なのですか? 」の疑問があります。数学の質問に答えるには、相手の持ち合わせている知識がどれだけなのかが必要だからです。
また、質問中の「意味」が何を指すのかがはっきりしません。

※ 他の記事にも書きましたが、数学が苦手な人は「意味」という言葉を使う傾向があります。
※ 時々, 返信がないと 1 週間後くらいに怒りにまかせて「あなたを一生恨んでやる」などの脅迫めいた文章を送られる方もいます。そのような方は、返信がないことが返答なのだと理解してもらいたいと思います。

数学の質問以外の内容については、時間がある限り答えていきたいとは思いますので、送ってもらって結構です。しかし、返信までに時間のかかることもありますのでご了承ください。

May.02
2012
数学の病気

よくある受験生の現象を記録していきたいと思う。

【記号負け】
非常に簡単なことを言っているにも関わらず、それを記号で表現するとわからなくなったり、記号を使うとわけのわからないことをする現象。
例えば、
1/a + 1/b = 1/(a+b) にならないことくらいは承知しているのに、
Σ_(k=1)^n 1/(k(k+1))=1/(1/3 n(n+1)(n+2))
としてしまう。

最近の例では、東工大の問題

「Σ_(n=0)^99 3^n の桁数を求めよ。」

に対して、
「Σ_(n=0)^99 (3^n の桁数)」
などというものがあった。

【記号神経症】
この記号は用いてよいのか、とか、使ってよいのかとかばかり気にして、本質的な答案を書けない状態でいる病気。
例えば、
「答案に『1次独立』という用語を用いてよいですか?」
のようなことばかりに悩んでいる状態。

【外積病】
授業中にベクトルの外積の話が出ると、「この先生すごい」と勘違いしたり、「自分は高度な内容に触れている」と勘違いし、興奮する病気。実際のところ、空間内の平行でない2つのベクトルに垂直なベクトルを出すだけに用いられるだけがほとんどなのに外積を深く学んだ気になる人も多い。
外積病にかかった受験生は興奮しながら次のような質問をしたくなる。「外積って試験で使っていいのですか?」 私の著書のベクトルにも書いておいたが、外積を表だって使わなければならない場面はほとんどない。陰でうまく使えばよいだけで。よってその質問はナンセンスである。

次は病気の先生についてです。

【巻き添え講師】
教育者が受験指導するときに必要な注意事項を受験生にも強要する教員・講師。例えば「垂線の足」と言う用語は教科書にはないため、教育者が公式の文章を書くときや入試問題等を作成するときは使いにくい。(普通は垂線と平面の交点などの表現をとる) しかし、教員自体が使えないからといって受験生にも「教科書にはない用語だから使ってはダメ」と言って使用を禁止する。また、「一次独立」という用語は教科書では使われないので、教育者が一般の受験生に説明するオフィシャルな文章には使えない。しかし、自分達が使えないからと言って、高校生にはも「使ってはダメ」と禁止してしまう。高校生たちは、勘違いした教員の巻き添えをくらってしまう。このように、教員自身が注意しなければならないことと、高校生が注意しなければならないことの区別ができない教員のことを言う。普通は遅くても10年くらいでここから脱皮するが、歳をとるまで脱皮しなければ頑固さも加わってかなり手ごわい。試験の採点ではつまらないことにこだわって減点するようになる。生徒達は、本質ではないことに神経を使うことになるから当然学力は伸びない。

【チラ見せ講師】
(定義) 高校数学の授業で、大学教養程度の話をチラッとだけして説明しない。もちろん、大学教養レベルの数学の話に触れることが悪いわけではない。「チラ見せ講師」の場合は、自分が知っているということだけを言って、細かい説明は一切しない講師のことである。
例えば、

(例1)「これは外積を知っているとこんな簡単に解けるんだ」と解いて見せるものの、外積が何なのかを説明しない。

(例2) 「これは関数の合成積を知っていると結果がすぐに見えて、ほら、こんなに簡単だろ!」と言って合成積の説明をしない。

(例3) (数学IIIの部分積分の授業で) 「これはβ関数と言うんだよ。この結果から, この定積分の結果はこうなるんだ」と言って、β関数の説明はしない。 (生徒への被害) 難しいことに触れた気になる。ここまではよいが、「かっこいい」と思って、

この方法に固執する。結果、身にならずにまともな方法を習得できないで終わる。(他の先生への被害) チラ見せ講師の多くは「言ってはみたものの、実はその説明はできないかしたくない人」である。そのため、他の先生のところに生徒は質問しに行く。他の先生はチラ見せ講師の後始末をすることになる。つまり、無駄な時間を取られる。 (その他) チラ見せ講師は意外に人気があることもある。場合によっては勘違いした生徒に尊敬されることもある。生徒が何か特別高級ないいことを知っているつもりになる。しかしそれは、幸せな気分に浸っているにすぎない。他との関連を理解していない、独立な知識を得ただけであるから。例えば、ワシントンがアメリカの首都であることを知らずに、ワシントンという町の名前を覚えて満足しているのに似ている。

【酔っ払い講師】
生徒の仕上げる解答としては、到底必要のない部分までも書いて、「自分の解答は完璧だ」と自分に酔ってしまう講師。
解答はまちがっているわけではないが、当然解答用紙には収まらない。それでもそんなことはお構いなし。

May.01
2012
数学が苦手な人の特徴

そのうちにきちんと整理しようと思うが、いくつか思い当たることをここに書き記し、少しずつ追加していこうと思う。

[1] 答案上の特徴
・やたら数式を展開する
・意味がわからなくても気持ち悪くならない。「ベクトルの2乗」などを平気で書く。

[2] 質問ができない。
・「正四面体ABCDがある。Aから面BCDに下ろした垂線の足はなぜ三角形BCDの重心と一致するのか」という質問をしたかったのだろう。
そのときに、
「先生! なんで、垂線の足は一致するのですか?」
という。一致する相手が何なのかを言っていない。

・やたら「意味」という言葉を使う。
「左辺はなぜ正になるのですか?」
と聞きたかったのであろう。それを
「左辺の意味を教えてください」
という。