数学教育研究所 公式サイト Mathematics Education Institute Official Web Site
Jun.03
2012
閉鎖的組織

 これまでに多くの「組織」を見てきて、最近特に感じることがある。

 「組織」の中には「通気性のよい組織」と「閉鎖的な組織」がある。このこと自体は多くの人は理解していることだろう。
やはり、怖いのは「閉鎖的な組織」で、「閉鎖的な組織」にいる人にはその中にいる自覚は少ない。何が問題かと言うと、「閉鎖的組織」ではその中でしか通用しないルール、あるいは常識ができるのだが、それが社会一般にあてはまると錯覚することである。

 そのような「閉鎖的組織」の一つとして私のまわりには「私立学校」と「塾」がある。私は、教員対象の「駿台教育セミナー」という講座を夏期、冬期、春期と担当させ

て頂き、多くの高校教員と接触しているのだが、そのようなところに情報を得るためにわざわざやってくる教員であればあまり心配はしない。しかし、一方で外に関心のも

たない教員も多くいる。そのような教員は学校単位で抱えているわけで、どのような学校がそれにあてはまるかというのは、実はその高校を卒業し予備校に通う生徒の質問

からわかる。私の中には、どのような高校がそれに当てはまるかは都内近郊の高校であれば頭の中に入っているが、もちろんそれをこの場で公表することはできない。ただ

、少しだけ言うと、そのような学校は、いわゆる「有名進学校」と受験という視点から見た「底辺校」の「両極端」に分布している。

 例えば、生徒の質問の中には、数学の内容からすればあまり重要でないことにこだわるものがある。それは、「書き方重視」のものである。
「『1次独立』という用語を答案の中で用いてよいのか」とか、「余弦定理より」と書くべきかとか、「合同式を表す『≡』を答案の中で使ってよいのか」とかばかりを気

にしていて、肝心の数学の内容には無頓着だったりする生徒から学校のことがわかる。
私の経験では、そのような質問を繰り返す生徒は大概は数学の本質に目を向けていないので、数学そのものをあまり理解していない。また、そのような書き方にこだわる学

校(ときには塾)はいくつかあることがわかっており、そのような学校に行って話をしたいとは思うのだが、閉鎖的組織のため「自分達のやっていることに問題はない」と思

っているようで実現しない。進学校の中には「だって自分達のやり方で東大に何人も入っているのだから」と考えているところもある。みなさんはおわかりだろうが、その

ようなところの生徒の多くは塾に通っているものである。
 一方、「底辺校」の閉鎖的な学校には、「勉強よりも大切なものがある」ということをよく口に出す。確かに高校で教えることは勉強だけではないだろう。生徒を甘えさ

せ、独立心、自立心の発達を阻止しているのには気がつかないでいたりする。自分達はこんなに生徒思いなのだから、とってもよい教員だと考えるのだが、それが教員の第

一であっては困るわけで、教員の第一は教科の内容をしっかり指導できなければならないことだ。

 このようなことは学校だけではなく、「塾」にもありうる。塾の中には、卒業生がその塾の講師になってそこで何年も「自給自足」を繰り返すものがある。そのこと自体

がすべて悪いわけではない。その塾に通い、今度は自分が後輩たちのために面倒をみようという思いは大切で、塾にとっても生徒にとっても宝である。しかし、その一方で

塾の中での間違いが永遠と受け継がれていく可能性もある。ある塾で「○○の定理」と言っているものが、そのような定理は世の中には定理は存在しない(定理として認識

されていない)というものはよくある。その塾の中では定理として存在するが、それが世の常識と思って疑わないところが問題だったりする。しかし、「自分達は正しい」

と勘違いをして外部の情報を遮断するから、何年も前進しないということが起り得る。

教育現場で、このような閉鎖的な組織にいると思い当たる人は、一度、騙されたと思ってでも外に目を向けてほしいと思う。

May.04
2012
ピアノ連弾組曲「夜の詩」(よるのうた)に関するお知らせとお願い

2012 年 4 月にカワイ出版から、企画出版として私の作曲した「ピアノ連弾組曲『夜の詩』」が刊行されました。

作曲したころは1980年代の後半から1990年代前半ですが、

・高校時代まで北海道に住んでいた自分の感覚を残す
・ピアノの連弾には、大きなコンサートに耐えうる作品が少ない、特に、プログラムのメインになるものはほとんどないので、そうなるものを用意したい

との考えから作られました。
この組曲は「1.夜景」「2. セレナーデ」「3. コロポックル」からなるもので、全部演奏すると17 分~18分くらいかかります。また、演奏会で私が弾く場合は、低音パートを私が弾くことを想定しており、その場合、
「1.夜景」は、ピアノの中級者
「2.セレナーデ」は、ピアノの初心者
「3.コロポックル」は、ピアノのセミプロ以上の人
が相手であるつもりで仕上げています。

演奏例はこちらにあります。

「夜景」
「セレナーデ」
「コロポックル」

また、楽譜の入手方法についてはこちらにあります。

(カワイ出版サイト)

こちらのサイトでは、楽譜の見本も見ることができるようになっております。

多くの人に愛される曲になってもらいたいと思っておりますので、是非、視聴するか、楽譜をお手に取ってもらいたいと希望しております。

May.04
2012
数学の質問に関するお願い。

数学に関する質問に関して以前からもいくつかの場でお願いしていますが、最近の状況から、再度御理解をいただきたいと考えています。

それは、
「メールでは数学の質問は答えない」
というものです。
主な理由は、

・メールでは数学の説明は難しい
(数学の説明は書かなければ伝わらないことが多々ある)

・メールでの説明は大変に手間がかかる
(尋ねる方は単に「なぜですか」でよいが, 答える方はその何十倍も説明になる)

・大勢の人に同じ対応をしたい
(一部の人にだけ特別な対応をとるのはその他の人に失礼であると考える)

です。
特に、以下の1つでもあてはまるものは一切お答えしないことにしており、原則返信もいたしません。

●名乗らない、挨拶がない
●私の著書に関し、著書に不備があることが原因ではなく、単に「教えて」という内容のもの (著書に誤植があったときに, それがもとで混乱している場合にはお答えしています)
●一般的な数学の話に関して、「数学を教えて」という内容のもの

例えば、いきなりメールを送ってきて、その内容が

「2行目の意味がわかりません。説明をお願いします。」

だけのものも多くあります。(この前後には何もない)
このような場合、まず、「あなたは誰なのですか? 」の疑問があります。数学の質問に答えるには、相手の持ち合わせている知識がどれだけなのかが必要だからです。
また、質問中の「意味」が何を指すのかがはっきりしません。

※ 他の記事にも書きましたが、数学が苦手な人は「意味」という言葉を使う傾向があります。
※ 時々, 返信がないと 1 週間後くらいに怒りにまかせて「あなたを一生恨んでやる」などの脅迫めいた文章を送られる方もいます。そのような方は、返信がないことが返答なのだと理解してもらいたいと思います。

数学の質問以外の内容については、時間がある限り答えていきたいとは思いますので、送ってもらって結構です。しかし、返信までに時間のかかることもありますのでご了承ください。

May.02
2012
数学の病気

よくある受験生の現象を記録していきたいと思う。

【記号負け】
非常に簡単なことを言っているにも関わらず、それを記号で表現するとわからなくなったり、記号を使うとわけのわからないことをする現象。
例えば、
1/a + 1/b = 1/(a+b) にならないことくらいは承知しているのに、
Σ_(k=1)^n 1/(k(k+1))=1/(1/3 n(n+1)(n+2))
としてしまう。

最近の例では、東工大の問題

「Σ_(n=0)^99 3^n の桁数を求めよ。」

に対して、
「Σ_(n=0)^99 (3^n の桁数)」
などというものがあった。

【記号神経症】
この記号は用いてよいのか、とか、使ってよいのかとかばかり気にして、本質的な答案を書けない状態でいる病気。
例えば、
「答案に『1次独立』という用語を用いてよいですか?」
のようなことばかりに悩んでいる状態。

【外積病】
授業中にベクトルの外積の話が出ると、「この先生すごい」と勘違いしたり、「自分は高度な内容に触れている」と勘違いし、興奮する病気。実際のところ、空間内の平行でない2つのベクトルに垂直なベクトルを出すだけに用いられるだけがほとんどなのに外積を深く学んだ気になる人も多い。
外積病にかかった受験生は興奮しながら次のような質問をしたくなる。「外積って試験で使っていいのですか?」 私の著書のベクトルにも書いておいたが、外積を表だって使わなければならない場面はほとんどない。陰でうまく使えばよいだけで。よってその質問はナンセンスである。

次は病気の先生についてです。

【巻き添え講師】
教育者が受験指導するときに必要な注意事項を受験生にも強要する教員・講師。例えば「垂線の足」と言う用語は教科書にはないため、教育者が公式の文章を書くときや入試問題等を作成するときは使いにくい。(普通は垂線と平面の交点などの表現をとる) しかし、教員自体が使えないからといって受験生にも「教科書にはない用語だから使ってはダメ」と言って使用を禁止する。また、「一次独立」という用語は教科書では使われないので、教育者が一般の受験生に説明するオフィシャルな文章には使えない。しかし、自分達が使えないからと言って、高校生にはも「使ってはダメ」と禁止してしまう。高校生たちは、勘違いした教員の巻き添えをくらってしまう。このように、教員自身が注意しなければならないことと、高校生が注意しなければならないことの区別ができない教員のことを言う。普通は遅くても10年くらいでここから脱皮するが、歳をとるまで脱皮しなければ頑固さも加わってかなり手ごわい。試験の採点ではつまらないことにこだわって減点するようになる。生徒達は、本質ではないことに神経を使うことになるから当然学力は伸びない。

【チラ見せ講師】
(定義) 高校数学の授業で、大学教養程度の話をチラッとだけして説明しない。もちろん、大学教養レベルの数学の話に触れることが悪いわけではない。「チラ見せ講師」の場合は、自分が知っているということだけを言って、細かい説明は一切しない講師のことである。
例えば、

(例1)「これは外積を知っているとこんな簡単に解けるんだ」と解いて見せるものの、外積が何なのかを説明しない。

(例2) 「これは関数の合成積を知っていると結果がすぐに見えて、ほら、こんなに簡単だろ!」と言って合成積の説明をしない。

(例3) (数学IIIの部分積分の授業で) 「これはβ関数と言うんだよ。この結果から, この定積分の結果はこうなるんだ」と言って、β関数の説明はしない。 (生徒への被害) 難しいことに触れた気になる。ここまではよいが、「かっこいい」と思って、

この方法に固執する。結果、身にならずにまともな方法を習得できないで終わる。(他の先生への被害) チラ見せ講師の多くは「言ってはみたものの、実はその説明はできないかしたくない人」である。そのため、他の先生のところに生徒は質問しに行く。他の先生はチラ見せ講師の後始末をすることになる。つまり、無駄な時間を取られる。 (その他) チラ見せ講師は意外に人気があることもある。場合によっては勘違いした生徒に尊敬されることもある。生徒が何か特別高級ないいことを知っているつもりになる。しかしそれは、幸せな気分に浸っているにすぎない。他との関連を理解していない、独立な知識を得ただけであるから。例えば、ワシントンがアメリカの首都であることを知らずに、ワシントンという町の名前を覚えて満足しているのに似ている。

【酔っ払い講師】
生徒の仕上げる解答としては、到底必要のない部分までも書いて、「自分の解答は完璧だ」と自分に酔ってしまう講師。
解答はまちがっているわけではないが、当然解答用紙には収まらない。それでもそんなことはお構いなし。

May.01
2012
数学が苦手な人の特徴

そのうちにきちんと整理しようと思うが、いくつか思い当たることをここに書き記し、少しずつ追加していこうと思う。

[1] 答案上の特徴
・やたら数式を展開する
・意味がわからなくても気持ち悪くならない。「ベクトルの2乗」などを平気で書く。

[2] 質問ができない。
・「正四面体ABCDがある。Aから面BCDに下ろした垂線の足はなぜ三角形BCDの重心と一致するのか」という質問をしたかったのだろう。
そのときに、
「先生! なんで、垂線の足は一致するのですか?」
という。一致する相手が何なのかを言っていない。

・やたら「意味」という言葉を使う。
「左辺はなぜ正になるのですか?」
と聞きたかったのであろう。それを
「左辺の意味を教えてください」
という。

Apr.30
2012
3つの数学

数学には, 大きく分けて 3 種類ある。それは,
[1] 生きていく上で必要とされる知識としての数学
[2] 受験数学
[3] 趣味・興味としての数学
である。
[1] は, やさしいものであれば, 算数の計算などがあてはまる。また, 文科省のカリキュラムもこの姿勢で作成されているのではないかと考えられるから, 高校の現場で文科省検定に沿った数学を教えることは, [1] のもとでの活動である。したがって, 本来は高校数学の原点は大学受験などに振り回されるのではなく必要とされるものをしっかりと習得すればよいのであって, 時間制限のもとあせって解く必要のないものなのかもしれない。
[2] は受験特有の数学を指す。これは, この国がこれまで築き上げた「文化」の一つである。受験数学の特徴の一つは, 問題を解く上で厳しい「時間制限」があることである。したがって, ゆっくり考えて答を出すのではなく短時間で正解に達するような手法が必要とされることもある。例えば, 2 次方程式 ax^2+2b’x+c=0 を解くとき, 解を判別するときに D (判別式) ではなく, D/4 を用いることもあるが, 受験数学の立場からすればそれは必要とされる知識である。よく、「D を知っていれば D/4 はいらない」という人もいるが, そのような人にはもちろん数学が苦手な高校生に関わっている立場から(負担が少なくなるように)言っている人もいるものの, 多くは「時間制限のない世界」にどっぷりと浸かっている人達だったりする。また、「受験数学」を教える中には, 数学が苦手な生徒に対してもわからせる工夫(場合によっては点を取らせる工夫)もある。もちろんこれは内容によっては賛否が分かれたりもする。
[3] は, 「数学マニア」とか数学の「研究者」などが関わる数学である。数学の美しさに感銘したり, 自然界の中に含まれる数学的なしくみを解明するなどがある。それを実生活へ応用することを考える人もいれば, 実生活とは無関係に単に興味として研究する人もいる。

野球, テニスなどには軟式・硬式があるが, このどちらが「正統」かということを主張し合っても仕方のないことではないか。また, スケートの中にもスピードスケートやフィギュアなどがあり, このどちらが「正統」なスケートかと言ったところで意味がないのではないか。また, 音楽においてもクラシックやジャズ, 歌謡曲等様々であるが, これを好みの議論はもちろん構わないにしてもどちらが「正統」を言ってもむなしいだけではないか。これを, 一方の立場の人が, 自分のやっていることが正統であり, 他は邪道であるなどというと, 生産性のないつまらない言い合いになってしまう。

数学についても同様であるが, 数学に関わる人は私は上にあげた世界よりも視野が狭い人が多いような気がする。例えば, [3]の世界の人には[2]の世界を知らずに上から目線で頓珍漢なコメントを残すことも多い。[3]の人は, 普段は「厳しい」時間制限に追われない生活をしているため, 「公式は導いてから使うようにすればよいのだから, そうたくさん覚える必要がない」という発言をする人もいる。しかし, [2]の世界では, そればかりだと時間内に目的が達成できずに終わらなくなることも多々ある。そして, [2]の世界を作り出したのは, 大学入試であり, [3] の世界の人であることも忘れてはならない。

以前, 中学入試で次のような「法則?」を聞いた。

正方形のまわりを半径 r の円が正方形に接しながら一周する。このとき, 円の通過部分の面積を S とする。
円の中心が動いた部分の長さを L とおくと, このとき,
S = 2Lr
が成り立つ。

これは, 中学入試では「センターラインの法則」などと言うのだそうが, 中学, 高校の数学の先生からすれば「『普通』に計算すればよいではないか」ということになるかもしれない。これも, 数学の点がとれない人に点を取らせるためにできたもので一つの「文化」ではあると思う。

[2] の世界の人が[3]の世界の人を小馬鹿にしていることもよくある。例えば, [3]の世界の人の中には自分達で大学入試問題を作っておきながら, [2]の人から見れば解くのが大変遅いからである。

これ以外の例も多々あるのであるが, 数学の世界においてもどの数学が最も必要なのかとか「正統」なのかを議論することを好む人も多い。もちろん, 議論自体は止めはしないが, その中には自分の立場しか知らない視野の狭い発言が多いので, その点が残念ではある。
そして, 数学に関わる人全員が[1],[2],[3] に精通している必要はないとは思うが, 一つの高校, 予備校などの数学の教員の集団くらいになれば, その中に一人, 二人は全体にある程度理解のある人はいた方がよいとは思う。

以上の件は, 今後引き続き述べていき, 今年度夏の駿台教育研究セミナーでもより具体的にとりあげる予定である。

   

Jan.02
2012
新年のご挨拶

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

受験生の方には、あと少しの間頑張ってよい結果が出るよう応援しております。

また、本年は高校数学においては新課程が開始され、数学教育の変化が少しずつ始まる年でもあります。数学教育がどこに向かっているのかを注視しながら多くの人の役に立つよう、自分のできることに励もうと思っております。
引き続きよろしくお願いいたします。

Dec.24
2011
「合格実績」の理解の仕方

 毎年, この時期あたりから予備校・塾の次年度の生徒募集が開始され, 3 月ころまで徐々に過熱して行く。この生徒募集の宣伝において欠かせないのが「合格実績」だ。この合格実績によって生徒はもとより生徒の父兄は予備校・塾の力を計ることになる。
 特に, 東大合格実績は優秀な生徒を集めたい予備校・塾にとっては重要な宣伝の構成要素である。ところが, この合格実績には明確な基準はない。そもそも基準などは作っても意味があるのだろうかなどの議論もあるくらいだ。しかし, そうであっても現段階では合格実績を発表するところによってその基準が大きく違いすぎると, 現状を知る人ならば誰もが感じることだろう。実際, 「高 3 の 1 年間通して在籍して東大に合格した生徒だけを東大合格実績としてカウントする」塾もあれば, 「中学 1 年のときに在籍しただけ」でカウントしたり, 「自習室を使っただけ」で合格実績にカウントするところもある。これを知れば, 塾を選ぶ高校生, そしてその父兄からすればなんともいい加減な業界と思えることは間違いない。

 しかしながら, このいい加減に見える合格実績について私は次のように考えることにしている。

 国立大学が大学入学試験の受験者への成績開示が行われるようになって数年が経過した。中でも東大は科目ごとに開示しているという細やかさである。以前から指摘されてきたことであるが, 成績開示によってより一層実感するのは合格点周辺での受験者の多さである。特に, 東大の場合は傾斜配点のため小数第 4 位までの表示になっており, そのため小数点以下の差(1 点未満の差)というものが発生し, 小数点以下の違いで合格する人と涙を飲む人を毎年何人も目にしている。ここで東大に合格点より 1 点未満上の得点で合格した P 君の場合を紹介しよう。

 P 君は東大合格のため主に A 塾に通い, B 塾には講習だけ通った。そして, C 塾の自習室を週に 1 回使い, D 塾の無料の体験授業を 1 時間受けた。これでぎりぎり合格したのだが, P 君の場合 A 塾はもちろん, B, C, D 塾のどの一つが欠けていても合格しなかった可能性がある。1 時間しか受けなかった D 塾であっても, もしもその 1 時間がなければ合格点達しなかったかもしれない。したがって, D 塾も合格に貢献したのだからということで合格実績にカウントしようということになる。
 このように, 合格者一人につき合格に多少なりとも貢献した塾がいくつも存在することがあるので, 「合格実績」という言葉が本来理解される意味とは異なって使われているのではないだろうか。このようなことなので, 「合格実績」という言葉の中には, どのくらい合格に貢献したのかがあいまいであるため, ちょっとでも合格に貢献したと思える場合は合格実績としてカウントしていると受け止める方がよいだろう。もちろん予備校・塾からすれば, 決して嘘をついているのではないというスタンスである。
そういう意味では, 受験生の父兄も「合格実績」を主張してもよい。

 さて, これまで比較的寛容に「合格実績」を解釈した。ところが, 最近は次のような例もある。今年, 東大理科三類に合格した Q 君の場合である。 東大合格発表の日に本郷キャンパスで自分の受験番号を見つけ喜んでいたところ, どこかの塾から声をかけられ謝礼を払うから合格体験記を書いてくれと頼まれたという。もちろん, その塾に在籍したことにしてその塾を賛辞する体験記である。実は, このようなことは, 偶然この Q 君だけに起った珍しい例というわけではなく, 最近では増えている手法である。
 私は, さすがに合格発表があってからの「合格実績づくり」は反則だと思う。
しかし, それ以上に, 謝礼に釣られてデータの捏造に協力する高校生達に将来の不安を感じる。このような人達が, 将来医者になったり官僚になったりするのだ。私のまわりのベテランの先生には, 「東大に入れるべきではない人を東大に入れてしまった」と嘆く人もいる。
 来年の東大合格者には, 1万円程度のお金に釣られることで, それよりも大切なものを失わないでほしいと思う。

Dec.19
2011
新課程に対する大学と文科省の思惑の差

 来年度から高校数学は新課程の内容が教えられる。今、高校の現場や塾, 予備校ではその有効な対応が求められている。
 私も 12 月 18 日に新課程を題材に教員用のセミナーを行った。高校の先生達の関心は非常に高く、12 月 23 日に実施される同じ講座は満員になっていると聞く。

 まず、この後のテーマに触れる前に簡単に新課程の説明をしておこう。
新課程は、数学 I (3), 数学 II (4), 数学 III (5), 数学 A (2), 数学 B (2) からなる。( ) 内は標準単位数である。新課程から数学 C が消え、一部、数学 III に統合された。新課程で学習する具体的な内容を紹介すると、

  数学 I :「数と式」「図形と計量」「二次関数」「データの分析」
  数学 II  : 「いろいろな式」「図形と方程式」「指数関数・対数関数」「三角関数」「微分・積分の考え」
  数学 III : 「平面上の曲線と複素数平面」「極限」「微分法」「積分法」
  数学 A :「場合の数と確率」「整数の性質」「図形の性質」
  数学 B :「確率分布と統計的な推測」「数列」「ベクトル」

である。今回から「データの分析」が数学 I に配置されたが, この意味は大きい。現行課程においても統計分野の内容は数学 B, 数学 C で扱われているが、数学 B, 数学 C はその中にある 4 項目から選択されるものであるから, 教科書にはあるが, 学習される機会はほとんどなかった。例えば、現行課程の数学 B は

  「数列」「ベクトル」「統計とコンピュータ」「数値計算とコンピュータ」

の 4 項目から 2 項目を選んで学習するのだが、ほとんどの学校は「数列」と「ベクトル」を選択して「統計」は学習しないのが現実である。したがって、「統計」はこれまでは「避けて通れる」分野であったのだが、新課程では数学 I に配置されることから「必修分野」になった。
 なお、一部の団体が、統計分野が扱われることを「新課程の目玉」とか「必修分野なのだから」と強調し、統計分野だけのために対策講座を開いて、いかにもこれからの大学入試の中心になりうるとばかり宣伝しているところもあるが, それは私に言わせれば大げさである。

 それでは本題に入ろう。

 平成 23 年 11 月に東京大学から平成 27 年に実施される新課程の第 1 回目の入試科目に関する案内があった。
それはこちらにある。

http://www.u-tokyo.ac.jp/stu03/pdf/H27syutudai.pdf
(京都大学はこちら http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/news1/2011/111208_1.htm)

この中のどこに注目してもらいたいかと言うと、それは数学 A に関する記述である。
 文科省が考える数学 A は
「場合の数と確率」「整数の性質」「図形の性質」
の 3 項目から 2 項目を「選択」し 2 単位(週 2 時間の授業)とするものである。どの 2 項目をとるかは学校に任されており、「場合の数と確率」と「整数の性質」を選択するのもよいし、「場合の数と確率」と「図形の性質」を選択するのもよい。
 しかしながら、今回の東大の発表は、この 3 項目をすべて出題範囲とするというものである。つまり、高校の現場では、通常はこの 3 項目すべてを教えることは、時間などの制約によってできないのだが、国立大学である東大が、とれないはずの 3 項目をあえて試験範囲にしたのだ。
(なお、京都大学も同様の措置をとり、私のもとには北海道大学もそのような方向で考えていると言う情報が入っている。他大学も同様なことを行うことは今後十分にありうることである。)
 このようにしたことついて、東大にはもちろんもっともな理由はあることだろう。実は、数学 A の 3 分野はもともと東大がよく出題していたものである。これまでは、「整数の性質」という項目はなかったので、黙って整数問題を出していた感ががあるが、仮に、新課程入試おいて、東大が数学 A の中から
 「場合の数と確率」「図形の性質」
を選択すると言ったならば、わざわざ「整数の性質」を切ったことになるから、「整数の性質は出題されませんよ」というメッセージを与えかねない。したがって、従来の整数問題は出しにくくなるので, 数学 A の 3 分野すべてを出題範囲に入れておくのだと思う。

 このようなことになって、中高一貫校のような時間に余裕のある一部の高校は別にして、ほとんどの高校にとっては「一大事」である。この時期、高校は来年度の配当時間を所定の役所に提出しており、今更数学 A を 3 単位に変えられない。また、再来年度以降も時間を確保できるとは限らない。つまり、もしも他大学も東大にならうとすれば、高校の授業をすべて受けても大学入試の試験範囲はカバーできないという事態になる。妥協策としては、

・とりあえず、数学 A を週 2 時間で授業をし、「夏休み」、「冬休み」などに補習を入れて残り 1 項目を学習する
・「データの分析」の時間を減らし、数学 A の残り 1 項目にあてる

などが考えられる。なお、後で説明するが、「データの分析」は高 1 で学習するより, むしろ高 3 で扱う方が入試対策としては適している。

 私は次のように考える。

 本来、数学 I はすべての高校生が通過する分野であるのだから、その後で学習する分野(数学 II, III の内容など) に役立つものを学習するべきである。例えば、「数と式」は, その後で数学 II, 数学 III を学習するときに必要な知識・考え方であるから、必修科目である「数学 I 」の中に入れるべきである。同様に、「図形と計量」(三角比) と「二次関数」も必修科目である「数学 I」に入れるべきである。しかしながら、「データの分析」はどうであろうか? 実は、「データの分析」で得た知識は、数学 B の中の「確率分布と統計的な推測」で使われる程度であり、数学 B でこの分野を選択しなければ、孤立した分野になってしまう 。ところが, 数学 III の
 「極限」を学習するには数学 B の「数列」を学習することが望ましい
 「複素数平面」を学習するには数学 B の「ベクトル」を学習することは望ましい
わけだから、ほとんどの高校は、数学 B では「数列」と「ベクトル」を学習することにならざるを得ない。したがって、数学 I で「データの分析」を学習したところでそれはあとにつながらない分野であり、孤立した分野なのだ。
こう考えると、「データの分析」高校 1 年生で習ってもそれ以降使わないから大学入試までには忘れてしまいがちなので、高校 3 年生のときにちょっとだけ時間をとるのもよいかもしれない。それがシステムとして可能な高校ならばであるが。

 結局、東大の気持ちを代弁すると次のようなものではないのだろうか。

「『データの分析』はむしろ数学 A の選択項目として、新課程の数学 A の 3 項目のどれか一つを数学 I の中に入れてほしい」

今回の東大の文科省カリキュラムに反した決断には私は敬意を表する。(不良品に対する断固とした態度をとったということで)

 実は、私の聞くところでは(不確かな情報であることを断っておく)、このようなカリキュラムを決める場には、
「実績のある数学者」とその方よりも「やや(?)力の劣るお弟子さん達」(実動部隊) と(出版社上がり(?)の人を含む)「役人」
がいるとのこと。時期大阪市長の橋下氏が「市役所の職員が政治をしすぎる」と言うように、「役人がカリキュラムに口を出しすぎる」とよいことはない。
中には、「私が『行列』をなくしたんです」というように力を誇示する役人もいる。やはり、国の将来を決めるカリキュラムはベストメンバーで考えてもらいたいと思う。

Dec.10
2011
大人と子供の違い

 毎年この時期になると予備校の通常期の授業が終了する。もちろん、受験生はここで勉強をやめるわけではなく、授業の形態を「通常授業」から「講習」に変えて続けるのである。とは言うものの、一応、通常期の授業が終わるわけだから一区切りがつくことには変わりはない。したがって、とりあえず 4 月からの先生と生徒の関係になった人たちにはお別れの言葉を述べて授業を締めくくることもある。そのようなときに話す内容の 1 つを書いてみようと思う。それは「大人と子供の違い」についてである。なお、大人と言えば、日本の法律上の定義は20歳からであるが、予備校の高卒生の場合はほとんどはこの段階では 19 歳以上で、来年は 20 歳になるか、すでになっている人達である。18 歳の高校生に対しても、遠くないうちに 20 歳になるのだから関係なくはない。

 人の考え方は、幼少のときは、特に親の考え方などその人が置かれた環境に大きく左右される。例えば、ある小学生が路上にゴミをポイと捨てたとする。このような場合、悪いのは 100% 小学生であると言えるだろうか? 私は、小学生が全く悪くないとまでは言わないが 100% ではないと思う。それは、親が普段からそのようなことを平気でしていてそのようなことをしてもかまわないと子供に教えている可能性もあるからだ。また、言葉使いが悪い中学生、電車の中で周りの迷惑を考えずに騒ぐ高校生に対しても、このことが悪いことであっても、それが 100% 中学生、高校生の責任かというとそうではないと考える。なぜなら、このような人をとりまく環境 (親、友達など) が、そのようなことをすることは別に悪くはないと考え、そのような中でこれまで育って来たことも考えられるからである。
 例えば、今、あなたのまわりの人が全員、路上に紙くずを投げ捨てるような人であったとしよう。そのような中で育ってきて、それが普通の世界にいるあなたにとっては、路上にゴミを投げ捨てることがよくないことだと気がつくのは難しいのではないだろうか。もちろん、だからといってゴミをポイっとするのがよいことだと言うつもりはない。
 さて、本題の「大人と子供の違い」であるが、子供の場合、ゴミポイが 100% が子供の責任でない(育って来た環境を考慮しなければならない)のに対し、「大人」となったあとは、いくら育って来た環境が不幸であったからと言っても、社会常識からそれは悪いことであるということに気がつかなければならないだと考える。つまり、自分の親の教育のせいにしたり、自分のつらい過去を理由にしてはいけないというのが(大人と子供の)違いであると考える。社会的に見て迷惑なこと、悪いことをした場合に、もちろん育って来た環境のせいでそのようなことをしてしまうことはあるかも知れないが、「悪いことだということにそろそろ自分で気がつかなければならない」というのが「大人」である。
 例えば、電車に乗るときに割りこむことは、たとえあなたの両親がそのようなことをしていて小さいときからそうするように育てられたとしても、「大人」になったら親のせいにはできないのである。そう、大人になれば、今度は悪いのは100%あなたのせいである。

 こう考えると、歳をとってもまだまだ「子供」のままの人も多く見かける。私は、希望する人に大学進学の手伝いをするのが役目であって、その後生徒たちがどのような道を歩んだかは原則わからない。わからなくても、生徒達が確実に、私が考える「子供」から「大人」に変化してもらうのを願っている。