- Feb.09
2011 - 新曲「三角関数」
こんな曲を作ってみました。タイトルは三角関数。25秒くらいの短い曲です。音質は悪いのでよくなるように努力しようと思います。明日か明後日に動画にしようと思っていますが・・・・。
さて、この曲のどこが三角関数なのでしょうか。この段階でわかる人いるかな。
こんな曲を作ってみました。タイトルは三角関数。25秒くらいの短い曲です。音質は悪いのでよくなるように努力しようと思います。明日か明後日に動画にしようと思っていますが・・・・。
さて、この曲のどこが三角関数なのでしょうか。この段階でわかる人いるかな。
学生のとき、数学科の仲間 6 人くらいで車 2 台に分かれ長距離を移動していた。何のために移動していたのかはちょっと思い出せない。当時は携帯電話は普及されていないので、2 台の車が離れて連絡が取れなくならないようにとトランシーバーを買った。ところが、それほど 2 台の車の距離は離れなかったので、トランシーバーの出番はなく、せっかく買ったのにもったいないからと言って、トランシーバーを使って数学者の名前に限定してしりとりを始めた。もちろん、「ん」で終わる名前をあげると負けで目的地に着いてからペナルティーはあった。すると、数学者の名前で「ん」で終わる人は意外と多い。
「リー・・・・(リーマン)じゃなくて(少し慌てて)、ノイマン! 」
と言った感じで進行していった。最近ならばペレルマン(ポアンカレ予想を解決した人)が NG ネームであろうか。
さて、話は名前つながりではあるが全く変わる。定理、公式、あるいはそれを解決するための道具に適切な名前や記号を与えることは重要である。(ちなみに、私が考える記号考案の名人はライプニッツである。)
高校数学の中に三角関数の「和を積に変える公式」(和積公式) というものがある。例えば、
sin A +sin B = 2(sin (A+B)/2)(cos (A-B)/2)
というものである。確かに sin A と sin B の和が sin (A+B)/2 と cos (A-B)/2 の積になっているのでこの名の通りである。ところが、高校数学の数学 II で現れるこの公式を使う問題のほとんどは「和を積で表す」ことが解ける原因ではない。例えば、
「A+B=60゜, A≧0゜, B≧0゜のとき sin A +sin B の最大値を求めよ」
の場合は、和積公式を使えば、その後は簡単である。しかし、「和が積」で表されることよりも、A+B が一定なので「 A と B の正弦(sin)で表されていたものが (A+B)/2 と (A-B)/2 の正弦(sin)、余弦(cos)で表される」ことが解ける原因である。(数学 II でこの公式を使う場合は A+B, あるいは A-B が定数である場合がほとんどである。)
したがって、「和積公式を使って解けた! 」と言うと、何か誤解を与えるような気もする。もちろんこの公式を「和積公式」というのは間違いではないが、使い方と名前がずれているので、何かよいサブネームはないかと考え続けている。その場合
・使い方の実態とあっている。
・あまり長い名前ではなく、短くてすっきりしている。
・記憶に残りやすく、呼びやすい。
などの条件にあてはまるものがよい。「誰か名付け親になってくれる人はいないだろうか」と思うがまずは自分で考えようと思って数年が経過した。これを最初に思ったのがトランシーバーを使ってしりとりをしていたときである。
※積を和に変える公式も数学IIの問題の場合は上と同じ事があてはまる。しかし、この公式は数学IIIの積分で、今度は本当に「積を和に変えるため」に使っているのでその場合は名前と実態はあっている。
人を深く傷つけることの一つは「差別」であろう。
この「差別」であるが, 一般には「差別はよくないこと」と言うもののその「差別」の内容はいくつもの種類がある。ちなみに, ここでは「差別」の道徳的な話をしようとは思っていない。
教育の場で起り得る「差別」は次のようなものであろう。
ある問題を出したときにそれを答える 2 人の生徒がいた。その 2 人はほぼ同じ解答を用意してきた。ここで, 先生は一人には「よくこんなの思いついたね」と言い, もう一人には「こんな方法しか思いつかなかったの」のように異なる評価をくだした。そして, しかもこの 2 人がお互いにどのような評価をされたかを知ってしまった。このような場合である。もちろん, 2 人のその時点での学習到達度によって, 同じ解答を書いても誉め方は異なることはあるだろう。しかし, それを生徒が理解できるかどうかはわからないので十分注意を要することである。
このようなことは何も先生と生徒の関係だけではない。上司が同じ仕事を同じようにこなした 2 人の部下がいたときに, 一方は評価し, 一方評価しない場合などもそうである。例えば, ある上司のお気に入りの P さんと, この上司が「こいつは仕事はできないと決めつけている Q さん」に対して, (同じ結果を残したにも関わらず)
「さすが P さんだね。多少欠陥はあるけどこんなのはたいしたことないよ。それよりもよくこんなことを考えたね。」
「Q さん, これ欠陥だらけじゃないか。欠陥があるって気がつかなかったの?」
と言ってしまうなど。
これは, Q さんを傷つけ, Q さんのやる気を奪ってしまう。
私は, 教育者とか組織の中で人の上に立つ人には, 人を自分の偏ったフィルターを通さずに見る「目」が大変重要であると考える。それが上のような「差別」をなくすために必要なものである。
私は, 自分の著書「数学の幸せ物語」の中で, ある生徒の台詞として次のように言わせてある。
「よい医者の条件の一つとして, 次のようなものがある。
今, 100 人の似たような症状をもつ患者がいたとしよう。最初の 99 人は軽い腹痛の症状であったので, 薬を 1 つ 2 つ出して帰ってもらってもよかった。ところが, 100 人目は同じような症状であっても実は大変重い病気にかかっていた。
そんな状況のもとで, 100 人目の患者も同じような症状だから大丈夫と自分の思い込みできちんと調べないで判断してしまうのは, まだまだ修行の足りない医者である。これに対し, 100 人目の患者もしっかりと診察できる医者は信頼してよい。」
教育者の立場に置き換えて言うとこんな感じだろう。ある問題を出し, その後で 100 人の人が質問に来た。質問者の 99 人までは自分の予想していたもので, 本人の不注意などによるものであった。ところが 100 人目は質問の内容は似ていても, 実は問題の方のミスだったとする。こんなときに, 「どうせ同じ質問だろう」と決めつけて追い返すように対応してしまうのは, まだまだ修行が足りない教育者である。99 回同じ話があったあとでも 100 回目をしっかり見極めることができる人はこの件についてはしっかりとした教育者である。
最初にあげた「区別」とは少し異なるものであるが, 最初の「決めつけられて追い返された対応」を受けたのでは, 生徒によくない影響を与えてしまうことになりかねない。
このような対応は, 意外と差別した側は気がつかないので, 自分自身も注意しようとは常々思っている。
ところで, 話は少しずれるが, 数学の中で「差別」が語源である用語がある。それは何だかご存じであろうか。それは, discriminant である。(「差別する」は discriminate, 「差別」は discrimination ) 教科書では「判別式」とある。まあこの語自体は 「差別」とまで言わないまでも「区別」という意味から作られた語なのかもしれない。その辺は私は断言する知識をもたないが, ある有名な数学の先生が「discriminant? あ, 『差別式』のことね」と言っていたのを思い出す。英語を日本語にあてるときに, 妙な日本語をあててそれが定着することがあったり, また, operator のように立場で複数の訳語をあてる(数学では「作用素」, 物理では「演算子」)場合もあるが, この discriminant には「差別式」ではなく, うまく「判別式」という用語をあてたものだと思えてきた。一つ間違えば「差別式」になっていたのかもしれない。
私は, 受験数学の理論「2次曲線」の巻末にもあるようにちょっとした天体マニアである。そこで, 最近発見したことを記そう。
惑星の太陽からの平均距離に関する法則としてチチウス・ボーデの法則というのがある。簡単に言うと, 太陽系の内側から n 番目の惑星の太陽からの平均距離 d(n) は地球を 1 とすると,
d(n)=0.4+0.3×2^(n-2)
となるものである。何故こうなるのか? それは経験則にすぎないのであるが, 歴史上は結構役に立っている。詳しいことは書かないが、この法則によって, 1781 年に天王星を, 1801 年に小惑星のケレスを発見したのであることをとりあえず言っておこう。
さて, 天王星が発見された後で様々な観測から天王星の外にもう一つ大きな惑星があると予想された。まぎれもなく今日我々が海王星と呼んでいる天体である。当時の人々は必死になって探しついに 1846年9月23日にジョン・アダムス達によって発見された。世紀の大発見から月日が流れ, 今では, 公転周期が 165.2269 年, すなわち 165 年と約 83 日であることも知られている。「1846 年」「165 年」と聞いて何か思わないだろうか。そう,
1846+165=2011
である。83 日分も発見日から追加すると、今年の 12 月 15 日ころに海王星は再び発見された場所に戻ってくることになる。海王星にしてみれば「ここで見つかっちゃった。」という場所に戻ってくることになる。今年はそういう年。
おかえりなさい。海王星!
数学教育研究所スタッフです。2011年1月15日に清が、
横浜のFMラジオ局fm yokohamaの番組「Future Scape」に出演しました。
その様子を写真等でお伝えします。
番組DJは放送作家・脚本家の小山薫堂さんと、ラジオDJの柳井麻希さん。
放送後に、記念写真を。
数学教育研究所スタッフです。
センター試験・数学、前日のfm yokohama「Future Scape」出演に合わせて清が作成した「センター試験の秘訣」です。
オリジナルデータはpdfですので、ダウンロードの上、明日のセンター試験に是非役立てて下さい。
清史弘オリジナル(2011.01.15)「センター試験の秘訣.pdf」をダウンロードする
下記は、pdfのオリジナルデータからテキストデータと数式部分を画像で記したものです。
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本サイトは 2003 年 7 月から続いているものですが、2011 年 1 月 13 日にリニューアルすることとなりました。
今後もみなさんに有形無形を問わず何らかの形でお役にたてるような情報発信の場としていきたいと思いますので今後ともよろしくお願いします。
数学教育研究所スタッフです。
1月15日(土)に、代表の清史弘が横浜のラジオ局fm yokohamaの「Future Scape」に出演します。
※横浜、神奈川を中心に関東で聴く事ができるFMラジオです。
番組は、fm yokohamaで10年以上続く、人気番組で、DJは放送作家、脚本家として大活躍の小山薫堂さんと、ラジオパーソナリティーとして根強い人気の柳井麻希さんです。
どのような数学トークになるか、お楽しみに。是非お聴き下さい。
理科の先生と話してしてよく言われることがある。特に新学期が始まった時期に。それは「数学では、まだ微積分を教えていないの? 」「数学では、まだ三角比を教えていないの?」「数学では、まだベクトルを教えていないの?」などである。
これは、理科、特に物理では数学の記述を必要とし、化学でも pH を教えるときに指数法則や対数の性質などが必要になるが、そのときに数学でこれらを習っていないと教えにくいというのが原因である。
このようなことから、毎年春に見る風物詩が「理科の先生がしぶしぶ数学を教える姿」である。私は、これは理科の先生に申し訳ないと常日頃思っている。
ところで、ここでも何度か書いたように、これからの数学教育では「数学のよさ」を教える、あるいはそれらを伝えることに重点がおかれ、そのために数学がどれほど身近に役に立っているのかを強調する方向を向いている。しかし、その実際はというと無理して数学を使って説明をしたり、関心をもっている人が少ない内容を数学が割り込む形で説明していることが多い。私は、ここまでに「数学のよさ」を伝えようとしてきた人達の努力は否定はしないが、それとは別に、理科の先生に数学を教えるという負担をさせないようなカリキュラムはできないかとしばしば考える。
実は、30年ほど前の課程では、高校1年生で対数もベクトルも教えていた。さらに、それ以前には中学で対数を教えていた。ふと思ったことだが、理科はそのときの数学の学力で設定されていて、数学だけが理科とは関係なくずるずると後退して行っただけなのかもしれない。
さて、実際にカリキュラムを変えて高1でベクトル、指数対数を教えるようにするのはまず無理であろう。これは、知恵のある進学校がカリキュラムを組むレベルでの話が現実であるが、もしかすると数学が理科よりも先行すると数学と理科の学力に相乗効果が現れるかもしれないと思って、興味が尽きない。
1月1日にたまたま BS Asahi をつけると全盲のピアニストである辻井伸行君の昨年行なわれたサントリーホールでの演奏会の様子が放映されていた。途中から見たのであるが、(途中からの)曲目はリストの「ため息」あと「リゴレットパラフレーズ」、そしてその後のメインはムソルグスキーの「展覧会の絵」であった。「展覧会の絵」は私の演奏会レパートリーでもあるので、細部まで楽しませてもらった。
まず、テレビ局への苦言であるが、展覧会の絵の曲と曲の間で一度 CM が入った。それは古城のあとであるが残念である。展覧会の絵は組曲であるが、この組曲の場合、他の組曲よりも曲と曲の結びつきが強い。前の曲の印象を残しつつプロムナードを通じて、あるいは直接、絵本をめくるようにして次の曲に入るようにできている。したがって、演奏者もこの曲の場合、通常、曲と曲の間にすきまの時間を作らない。それをCMで一度区切ったのはいただけない。あくまでも展覧会の絵は全部で一つの曲なのである。一度 CM が入ったので、次はどの曲のあとでCMが入るのだろうと気になりだした。展覧会の絵の場合、後半は曲と曲が接続されている場合が多いのでなおさらひやひやしながら聞いていた。
辻井君は、サポートする男性に導かれて壇上の中央にあるピアノへと向かった。そして、普通のピアニストよりも時間をかけずすぐに演奏を開始する。最初の1音をどのように探すのかが気になった。が、あまり確認作業などしないで曲に入り大変不思議であった。
さて、さすがピアニストだけあって、結構指は動き正確なタッチであることには感心した。しかし、音は間違えていないのであるが、若干、私と解釈の違うところもあった。楽譜の中で作曲者が残した深遠部にあるメッセージを正確につかめていないのか、あるいはつかめているが、何か理由があって無視しているのかのどちらかがわからない部分がいくつかあった。
例えば、リモージュの中には、最初と再現部で同じ音形であってもアクセントの位置が異なる部分があるが、それを意識しているようには思えなった。また、バーバーヤーガにもアクセントの位置が譜面どおりではないか、あまいと思われる点があった。解釈の違いと言えないことはないが、譜面どおりの演奏技術がないとも思われないので、彼にこの部分を伝えた人の力量もこの水準になるとかなり影響があることを実感した。願わくば、彼に作曲者からの直接のメッセージを受け取れるようにしてあげたいと思うのだが。
以前、ピアニストの中村紘子さんが、ヴァン・クライバーン国際音楽コンクールの優勝者には、その副賞として多くの演奏会の開催が約束されるが、その見返りとして演奏者はそのハードスケジュールによってやせ細っていくと言っていた。比較の対象にはならないかもしれないが、塾・予備校の先生で授業を多くもちすぎる人の中には、授業マシーン化して内容のない授業をするようになる人もいる。また、医者や学者の中にもテレビなどの出演ばかりをして、中味のない人間になっていく人もいる。20代のピアニストの場合は、まずレパートリーを広げることと、作曲者の残したメッセージを直に受け取り、深く追求することが大切である。彼にはこの点を期待したい。