- Oct.21
2010 - 新カリキュラム
最近は、仕事の幅が広がりつつあります。その中で、数学以外の指導カリキュラムを理解しなくてはならなくなり、特に理科と地歴には苦労しています。理科 は例えば物理の場合は、物理基礎(2単位)と物理(4単位)に別れ、理系の場合は、「物理基礎」「化学基礎」「生物基礎」「地学基礎」から3つ選択するこ とになるようです。先生の人数の確保など多少の混乱が予想されます。
最近は、仕事の幅が広がりつつあります。その中で、数学以外の指導カリキュラムを理解しなくてはならなくなり、特に理科と地歴には苦労しています。理科 は例えば物理の場合は、物理基礎(2単位)と物理(4単位)に別れ、理系の場合は、「物理基礎」「化学基礎」「生物基礎」「地学基礎」から3つ選択するこ とになるようです。先生の人数の確保など多少の混乱が予想されます。
すでに twitter 上でも紹介したのですが、ある小学校でこんなやりとりがあったそうです。http://okwave.jp/qa/q5273339.html
話の要点は、ある小学校で先生が 3cm, 3cm, 6cm の長さの三角形を作図せよという問題を出して、その授業を受けていた小学生が「描けません」といったところ、
「確かに、中学、高校では描けないことになっているが、小学校の算数では線分の太さなどの誤差を考えれば描けることになっている!」
と言って、その先生は一歩も後には引かないということなのです。
まあ、この先生に対する非難はここの掲示板に書かれてあるとおりだと思います。
あえて加えるとすれば、
ということもこの先生に聞いてみたい感じがします。おなじ教育者として。
実は、私も以前、あるところでこのような先生を見たことがありますが、このようなパターンの場合、自分は「間違っていない」、「こう捉えれば自分の答も正しい」、「数学の解答は一つではない」、「1+1 だって 3 だというときがあるではないか」などと言って、意固地になってしまいます。そして、このような先生は相手が根負けするのを待っている感じです。根負けせずに、こてんぱんに論破すると今度は逆恨みをされます。
私が考える先生の「最低限」の条件とは、
です。予備校、塾の講師の場合はさらに
が追加されます。もちろん、大学、高校などの教員の方にも最後の条件は大切ですが、予備校、塾の先生の場合は「間違ったことを教えない」と同レベルくらい大切なことなのです。
さて、塾であれば、場合によってはこのような先生に関わらない方法があることもありますが、今回の掲示板のように担任の先生だとどうしようもないですね。ただ、今は web 上などで多くの人に聞くことができますから、心配なことがあれば迷わず聞くのがよいでしょう。私も、お助けできればしてみたいとは思っています。
「数学の幸せ物語(後編)」が発売されて2週間ほど経過しましたが、amazon で皆さんが買ってくださるおかげで amazon ランキングは好調です。amazon はこちらです。
ところで、この本の分類では amazonでは、なんと「日本文学」になっております。これが日本文学に入るとは知りませんでしたが、大変光栄です。確かに後編はストーリー重視になっ ているのですね。ストーリーを追いかけながら数学の話が頭に入っていったり、面白いと感じてもらうことがねらいなので。
まだ、読んでいない方も「日本文学」の「数学の幸せ物語」をどうぞ(笑)。
幸せ物語 10
こちらからどうぞ
幸せ物語 09
こちらからどうぞ
幸せ物語08
こちらからどうぞ
幸せ物語07
こちらからどうぞ
幸せ物語06
無知であることは, しばしば人を「幸せ」な状態にします。できたと思っていても実は全くできていない, でも本人はそれを知らない, 勉強が捗っていると思っていても実はぜんぜん進んでいない, そんな状態の人を「幸せ人間」と定義しましょう。 これは, そんな幸せ人間の物語です。
第1話 ベクトルの内積について
第2話 予想と解答
第3話 これでも答案
第4話 これ試験で使っていいの?
第5話 地に足がついていますか?
第6話 暗中模索
第7話 最初が肝心
第8話 これなら大丈夫型答案
第9話 順番を守ろう(前編)
第10話 順番を守ろう(後編)
第11話 等号が成り立つかどうかそれが問題だ
登場人物等の紹介
(幸福高校の生徒)
幸福高校の先生
いよいよ「数学の幸せ物語(後編)」が刊行されます。
amazon ではこちらにあります。
発売前にも関わらず、多くの方が予約してくれているようで感謝しています。
私が1999 年 12 月に「受験教科書」(SEG 出版) の「場合の数と確率」を始めて刊行したのが、書店に並ぶ著書の始まりですが、当時は始めて刊行された 1 冊が、多くの受験参考書に挟まれて目立ちにくい状況でした。「これでは、だれも気がついてもらえない」なんて思っていましたが、「受験教科書」シリーズが 4,5 冊くらい出たときからようやく書店の棚で目立ち始め少しずつ注目してもらえるようになってきました。
今日現在では、「数学の幸せ物語(前編)」はどこの書店に行っても、その棚の中で分厚い本に挟まれひっそりと置かれています。後編が出れば、これでちょっとは気がついてもらえるようになるのではと思っています。
話は変わりますが、実は、「幸せ物語」自体は「数学の幸せ物語(後編)」以降も続いています。「数学の幸せ物語(後編)」には続編が出たときの主人公で ある福島解君と福本答子さんが現れ、また途中にその次の主人公である福山幸二(福山幸一の弟)君も現れ、伏線を引いてあります。新しく出る「後編」がある 程度反響がよければ出版社に続編の打診をしてみようと考えています。
「理系への数学 7月号」の目次裏の緑のページに紹介があります。また、その右ページに「『幸せ物語』の物語」が掲載されています。よろしかったら見てください。
この話は、「数学の幸せ物語」(後編) にも話の流れの中で触れられています。(第14話「短期的学習と長期的学習」より抜粋)
私の考えです。数学の用語では、足りないもの、名前をつけた方が記憶に残りやすいものについては「適当」な名前をつけるべきでしょう。しかし、名前の付 け方には一定のルールがあります。受験生が名づけたものであるならばまだしも、「大人」や「書籍を書く人」「論文を書く人」レベルになると下手な名づけ方 は笑いの種になってしまいます。
さて、名づけ方についてですが、私は、
1. 名前のないものに名前をつけようとすること → O.K.
2. すでに名前がつけられているものに、別名をつけること → O.K. (例: 多項式を整式とも呼ぶ)
と考えます。しかし、
3. すでにその名前は別のものを指すのに、あえて他のものを指す用語として使う → N.G.
ではないかと考えます。あくまでも私の考えです。例えば、「素数」と用語はすでに何を指すかは一元化されていると思いますが、ある小学校の先生が「1はすべての自然数の約数で『自然数の素(?)になっている』から、1 のことを素数と呼ぼう」などというと、習った生徒はいずれ素数を習ったときに混乱します。このような場合は、この小学校の先生は本来の素数の定義を知らないのではと思いたくなります。
話を本題に戻します。「整関数」という用語があります。この本来の意味はこちらで す。ところが、ここにも書かれているように、一部の人が「数学 II の微分で扱われる関数、すなわち、y=(多項式) 型の関数」を整関数と呼んでいます。これは、もちろん本来の意味を知らないからできるわけで、特に書籍のタイトルにまで「整関数」があるものがあります。 さすがに書籍にまでこの用語を使うのは・・・と思いますし、そのような書籍は私に言わせれば数学を理解していない人が書いた「要注意書籍」かもしれません。(先ほど調べたらたくさんあるようです。ですので表現をやわらげました。)
「整関数」という用語の乱用については
こちらとか、あるいはちょっと過激ですがこちら
などに怒りにも似た反応があります。
ただ、私はそこまでは思いません。というのは、「多項式で表される関数」のことを「整関数」と呼んでしまうには一つ可哀そうな理由があるからです。それは、文部科学省の発行している書物によることがおそらく原因だからです。
私の手元の資料では、平成元年版の「高等学校指導要領解説」に何事もなかったかのように自然に「整関数」という用語が出てきています。これを読むとこの 文章を書いた人は「整関数」を「多項式で表される関数」の意味で使っているようです。そして、その使い方についてのクレームがあったことが理由なのかどう かは定かではありませんが、平成11年度版の同書には、「整関数を多項式で表される関数」として文部科学省独自の定義をしています。文部科学省で最初に 「高校指導要領解説」を書いた人は、数学をよく知らなかった人でしょうが、その後で「整関数」という用語を用いた多くの人は、この文部科学省の流れに追随 した、あるいはつられてしまった(お役所の書物に書いてあったことなので・・・という感じで)のでしょう。
今さらですが、文部科学省の指導要領には必要な用語がなく、その一方でこのような造語あります。「1次独立」という用語がないために、「模範解答」を書 く際には、あくまで指導要領内の範囲で書く制約上、「1次独立」の部分を「ベクトルaとベクトルbは平行でなく、しかもどちらも0でないから」と書きま す。もちろん、受験生が答案を作成するときは「1次独立だから」でよいでしょう。
先日の話にもあった「軌跡の方程式」の定義は一部のローカルルールですが、今回のような「整関数」のように指導要領解説が発端のこともあります。どちらにしても、造語には注意しないと、採点者に通じないこともあるので注意が必要だと思います。
4月の末に高校3年生がある問題集をもってきました。たぶん、かなり多くの受験生が使っている問題集です。この問題集が何なのかは twitter 上のDMでのみお知らせします。メールでは答えません。
まず、その生徒の質問の内容を説明しましょう。話を簡単にするために問題を簡単にしてあります。
軌跡が y=x (0≦x≦1) で表される図形になる問題がありました。(実際は放物線の一部でした)
この問題集は実際の入試問題が「軌跡を求めよ」であったのに対し、わざわざ
「軌跡の方程式を求めよ」
と変更し出題しました。そこで、その解答には
y=x
とあったのです。生徒は、範囲は書かなくてよいのかと質問したので、私はそのときは「範囲も書いておいた方がよい」と答えました。
すると生徒は「ということは、この問題集の解答はまちがっているということですね」と言うので「そうだ」と答えました。
このことを数日前に twitter 上で書いていたら、それを聞いてこの問題集の解答が心配になった受験生が何人かいて、私のところに問い合わせをしてきました。私は同じ返事をすると、その うちの1人はその問題集を出している出版社に問い合わせをしたようです。すると、出版社からの返事は
「軌跡を求めよではなく、軌跡の『方程式』を求めよであるから、範囲まで答える必要はなく、軌跡を含んである方程式を答えればよい」
というものでした。だから、間違っていない、これでいいんだというものでした。(以下、この受験生の話を信じた場合という仮定がつきます。)
私は、「軌跡の方程式」のこのような定義を始めて聞きました。「軌跡の方程式」とは「軌跡を含む図形の方程式」ということだというのです。
妙な定義です。とても数学的な定義とは思えません。例えば、
ということになります。そもそも、このようなあいまいなものは数学の定義になるはずがありません。おそらく、その問題集独特の定義なのでしょう。
念のため、私はまわりの人に聞いてみました。一部、個性的な定義をする人もいましたが、大半は上の出版社の定義が理解できないというものでした。そして、そもそもそのような場合に「軌跡の方程式を求めよ」などと書かないというのです。
入試問題には、「軌跡はある円の一部であるが、その円の方程式を求めよ。」というものならあります。ですが、独自(?)に「軌跡の方程式を求めよ」とわざわざ問題文を代えるというのは、数学を知らない人のすることでしょう。
同じ予備校の先生がK塾のテキストも調べてくれましたが、K塾のテキストにも「軌跡の方程式」などという言葉はないようです。私は、受験業界の年配の人 にも多く尋ねてみました。すると、みなさんがそろって「明らかに出版社がおかしい」と言っており、とくにN岡氏は次のように返答されました。
(引用)
>お尋ねの件、(出版社名) の誤りは明らかでしょう。
>そもそも
>> 「軌跡の方程式を求めよ」
> ↑この出題が筋悪です。
>最初の発想が悪いので、後は何をやってもすべて無駄、と
>いうのが小生の立ち場です。
>
>f(x,y)=0 の形をした軌跡の必要条件の一つを求めよ、な
>ら、言い張るのも無理ではないと思いますが。
(引用終わり)
結局、単なる間違い、悪変更ではなく、「間違いを認めたくないという姿勢」と、「勝手に自分勝手な用語を定義してしまう横暴ぶり」が問題なのだと思っています。
ただ、この問題集はというよりは、この出版社は多くの受験生に支持されているようで、私、および私以外の多くの数学の教育者達がそれ以外にもこの問題集の よくない点を指摘しても受験生の多くは、「この出版社が間違うはずはない」と思ってしまうようで、いつも苦労しています。
以上の話は、夏の教員向けのセミナーでも話題にする予定です。
一時期、多くの人が持っていたポケベル(もしかして、今では死語?) も携帯電話の普及によって姿を消しました。カーナビもそのうちに姿を消すと思っています。なぜなら、携帯電話にはGPS機能がすでにあり、また、目的地ま での検索が今はでき、あとは渋滞情報が簡単に手に入れば(もしかしてもう手に入るのかな) わざわざ数万から数十万するものを車に取り付ける必要はないからです。
さて、話は変わります。私は、教育はそれぞれの人の居住地、経済力によらずだれもがある程度は平等に受けることができるべきと考えます。しかし、現状は 教育の格差は大きく、地方によっては、塾、予備校もなく、教科書程度の内容を繰り返すしかないところも多くあります。
教育の方法の一つである「授業」は、今、対面式(ライブ授業)とビデオ授業に別れます。「対面式」の方は相手のニーズにあわせて、同じことを教えるにし ても毎回異なる授業を展開し、学習者との信頼関係を築きながら行うものですから、まだしばらくは存続し、必要とされるとは思います。しかし、いわゆる「ビ デオ予備校」のようなものはそのうちになくなると予想しています。なぜなら、そのようなものは、誰かがネットで無料で閲覧できるようにしてしまえばよいの です。質の高いものが無料でネットで流れると、だれもお金を払ってまで「ビデオ予備校」に通って見ようとはしません。今、私は、これからそれを実践しよう と計画中です。
私は、一人の教育者として、教育の格差をなくすこと、誰でもある程度は質の高い教育を受けられることが、日本のためを考えても必要だと思いますので小さな力でありますが、努力していきたいと考えています。
教育者の方で賛同してくれる方、協力してくれる方がいるとうれしいです。