一つ間違えば「差別」だった。
人を深く傷つけることの一つは「差別」であろう。
この「差別」であるが, 一般には「差別はよくないこと」と言うもののその「差別」の内容はいくつもの種類がある。ちなみに, ここでは「差別」の道徳的な話をしようとは思っていない。
教育の場で起り得る「差別」は次のようなものであろう。
ある問題を出したときにそれを答える 2 人の生徒がいた。その 2 人はほぼ同じ解答を用意してきた。ここで, 先生は一人には「よくこんなの思いついたね」と言い, もう一人には「こんな方法しか思いつかなかったの」のように異なる評価をくだした。そして, しかもこの 2 人がお互いにどのような評価をされたかを知ってしまった。このような場合である。もちろん, 2 人のその時点での学習到達度によって, 同じ解答を書いても誉め方は異なることはあるだろう。しかし, それを生徒が理解できるかどうかはわからないので十分注意を要することである。
このようなことは何も先生と生徒の関係だけではない。上司が同じ仕事を同じようにこなした 2 人の部下がいたときに, 一方は評価し, 一方評価しない場合などもそうである。例えば, ある上司のお気に入りの P さんと, この上司が「こいつは仕事はできないと決めつけている Q さん」に対して, (同じ結果を残したにも関わらず)
「さすが P さんだね。多少欠陥はあるけどこんなのはたいしたことないよ。それよりもよくこんなことを考えたね。」
「Q さん, これ欠陥だらけじゃないか。欠陥があるって気がつかなかったの?」
と言ってしまうなど。
これは, Q さんを傷つけ, Q さんのやる気を奪ってしまう。
私は, 教育者とか組織の中で人の上に立つ人には, 人を自分の偏ったフィルターを通さずに見る「目」が大変重要であると考える。それが上のような「差別」をなくすために必要なものである。
私は, 自分の著書「数学の幸せ物語」の中で, ある生徒の台詞として次のように言わせてある。
「よい医者の条件の一つとして, 次のようなものがある。
今, 100 人の似たような症状をもつ患者がいたとしよう。最初の 99 人は軽い腹痛の症状であったので, 薬を 1 つ 2 つ出して帰ってもらってもよかった。ところが, 100 人目は同じような症状であっても実は大変重い病気にかかっていた。
そんな状況のもとで, 100 人目の患者も同じような症状だから大丈夫と自分の思い込みできちんと調べないで判断してしまうのは, まだまだ修行の足りない医者である。これに対し, 100 人目の患者もしっかりと診察できる医者は信頼してよい。」
教育者の立場に置き換えて言うとこんな感じだろう。ある問題を出し, その後で 100 人の人が質問に来た。質問者の 99 人までは自分の予想していたもので, 本人の不注意などによるものであった。ところが 100 人目は質問の内容は似ていても, 実は問題の方のミスだったとする。こんなときに, 「どうせ同じ質問だろう」と決めつけて追い返すように対応してしまうのは, まだまだ修行が足りない教育者である。99 回同じ話があったあとでも 100 回目をしっかり見極めることができる人はこの件についてはしっかりとした教育者である。
最初にあげた「区別」とは少し異なるものであるが, 最初の「決めつけられて追い返された対応」を受けたのでは, 生徒によくない影響を与えてしまうことになりかねない。
このような対応は, 意外と差別した側は気がつかないので, 自分自身も注意しようとは常々思っている。
ところで, 話は少しずれるが, 数学の中で「差別」が語源である用語がある。それは何だかご存じであろうか。それは, discriminant である。(「差別する」は discriminate, 「差別」は discrimination ) 教科書では「判別式」とある。まあこの語自体は 「差別」とまで言わないまでも「区別」という意味から作られた語なのかもしれない。その辺は私は断言する知識をもたないが, ある有名な数学の先生が「discriminant? あ, 『差別式』のことね」と言っていたのを思い出す。英語を日本語にあてるときに, 妙な日本語をあててそれが定着することがあったり, また, operator のように立場で複数の訳語をあてる(数学では「作用素」, 物理では「演算子」)場合もあるが, この discriminant には「差別式」ではなく, うまく「判別式」という用語をあてたものだと思えてきた。一つ間違えば「差別式」になっていたのかもしれない。