「幸せ物語」に関するご案内
協賛企業募集のお知らせ
1. 「幸せ物語」の経緯
2. 書籍「数学の幸せ物語」 (ここで、書籍の一部が閲覧できます。2010.5.16更新))
3. 映画「幸せ物語」
4. 幸せ物語年表
5.「幸せ物語」の物語
(1) (2) (3) (4) (5) (6)
幸せ物語のサンプルを置きました。
DVD「幸せ物語(前編)」が発売されました。こちらです。
協賛企業募集のお知らせ (2010.7.20)
2010 年 7 月現在、書籍「数学の幸せ物語」は前編、後編とも刊行され、8月初旬には、この前編に対応した映画「幸せ物語」の第1話から第3話までがDVDとして
amazon 等で販売される予定です。この映画「幸せ物語」は全6話ですが、そのうち第4話までがすでに収録されています。残すは第5話、第6話です。
この第5話と第6話に向けて製作に協力していただける企業を募集しています。協賛については以下の 3 コースのいずれかでお願いいたします。
連絡先は
メールの場合は sei★math.co.jp (★は@に変える)
twitter の場合 f_sei
です。
- 協賛A (10 万円)
エンドロールに企業名が表示されます。
- 協賛B (30 万円)
エンドロールに企業名が表示される他、企業名の入ったアイテムを最大 2 シーン以内(各3秒以内)で、映画の内容に不自然がない範囲、内容と深く関係のない範囲で入れることができます。
例えば、お菓子会社の場合は、何かを食べているシーンをそのメーカーのものと入れ換えることは可能です。塾であれば、エキストラの生徒が塾のテキストを使って勉強しているシーンにすることも可能です。台本との兼ね合いもありますのでご相談ください。
- 協賛C (100 万円)
エンドロールに企業名が大きな字で表示されます。映画の進行に関係のない範囲で企業アイテムを用いたシーンを自然な形で入れることができます。(延べ30秒以内)
映画「幸せ物語」の第5話、第6話は書籍「数学の幸せ物語(後編)」(現代数学社) の第13話〜第18話をほぼ網羅するもので、第5話と第6話でそれまでの第1話から第4話分の内容を含む分量になることを予定しています。また、キャストも増えます。
参考までに、
第1話 (10 分)、 第2話から第4話(各 20 分)、第5話、第6話(25分〜30分)
です。
すでにある学校法人から協力してもよいという申し入れを頂いていますが、より多くの企業に支えていただきたいと考えてお願いしている次第です。
映画「幸せ物語」の内容については、すでに刊行されている「数学の幸せ物語」前編および後編と、DVD「幸せ物語(前編)」を参考にしていただけるとよいと思います。
なお、今後の予定としては、
2010 年 11〜 12 月: 第5話、第6話の収録
2010 年 12 月: 第5話、第6話の完成
2010 年 12 月〜 2 月: この期間のどこかで「幸せ物語完成祝賀会」を開催。
2011 年 1 月: 劇場公開
2011 年 春: DVD 「幸せ物語(後編)」を発売
その後は、各高校にDVDを1セット置いてもらうよう(購入または寄贈)にいたします。
「幸せ物語完成祝賀会」とは、映画制作にあたっての関係者(製作スタッフ、役者、関連企業等)を集め、映画の完成を祝う会です。
ぜひともご協力よろしくお願いします。
1. 「幸せ物語」の経緯
受験生に対して指導をしていて、「幸せな人」を多く見てきました。この「幸せな人」に自分が幸せであることを気がつかせるために作成したのがきっかけです。
今日では、私に習っている受験生には人気のある作品ですが、今後より多くの人に知ってもらうように努力していきたいと思います。
現在予定されている展開について、以下にお知らせします。
2. 書籍 「数学の幸せ物語」 (現代数学社) (前編は2010年1月 25 日刊行、後編は2010年7月刊行予定)
高校数学の誤った理解、学習法、数学の面白い話題を集め、一つのストーリーにしました。お話だけでも面白いと思います。
リンクの貼ってあるものは一部を閲覧できます。
キャスト一覧 (24.0KB)
前編
第1話 伝統 (18.1KB)
第2話 予想と解答 (6.13KB)
第3話 火星に生物がいる確率 (20.3KB)
第4話 同じ表現だから (21.9KB)
第5話 不等式が教えてくれたこと (9.49KB)
第6話 図の怖さを知れ
第7話 立場をかえてみてみると
第8話 教育者の条件 (18.3KB)
第9話 幸一君の夢
後編
第10話 これなら大丈夫 (2.21MB)
第11話 暗中模索
第12話 宝の持ち腐れ
第13話 証先生倒れる (21.5KB)
第14話 短期的学習と長期的学習
第15話 「知らないこと」と「わからないこと」
第16話 公式には覚え方がある (1.65MB)
第17話 伝わらない
第18話 競った仲間がいたから (392KB)
3. 映画 「幸せ物語」 (数学教育研究所・コスモボックス株式会社)
その後の公開方法については決まり次第お知らせします。DVD化、深夜番組の予定があります。
第1話 火星に生物がいる確率 (制作完了)
第2話 教育者の条件 (制作完了)
第3話 幸一君の夢 (制作完了)
第4話 証先生倒れる (制作完了)
第5話 「知らないこと」と「わからないこと」 (2010年秋〜冬に収録予定)
第6話 競った仲間がいたから (2010年秋〜冬に収録予定)
映画は以下のサイトで予告編を見ることができます。
http://www.brosta.tv/play/index/product/1051/list_type/5
4. 幸せ物語年表
- 2006 年 9 月
駿台横浜校で同じ質問を何度も繰り返す生徒、大きな失敗をしても懲りないを見て、「この生徒に気がつかせるには客観的に外から見た自分の姿を見せた方がよいのではないか」と考え、授業のプリントとして「幸せ物語
06」の作成を昼休みのうちに作る。
この段階では、
「君達のやっているのはのやっているのはこの話のこういう人物のやっていることと同じなんだよ。」
ということを伝えるだけの単発性でストーリー性の弱いものであった。
幸せ物語 06 主人公: 福沢幸夫、福田幸子
- 2007 年 6 月の始め
この年は前期から「幸せ物語07」を作成する。これが、書籍「数学の幸せ物語」(現代数学社) の元となる。
前年の「幸せ物語06」に比べストーリー性も重視した内容になる。
幸せ物語 07 主人公: 福山幸一、福川るい、福川れい
- 2008年 4 月
映画「幸せ物語」の古新監督と駿台の校舎で会う。
- 2008 年 6 月の始め
前年に引き続き「幸せ物語08」を作成する。6月に開始する理由は、授業アンケートが終わった頃を見計らってのこと。授業アンケートの前からプリントを配ると、よく「人気取り」と誤解されるから。
幸せ物語 08 主人公: 福島解、福本答子
- 2008 年 7 月
現代数学社の前社長である富田栄さんに現代数学社から「幸せ物語」を刊行することの了承をもらう。このときに書籍版は前年の「幸せ物語07」をベースにする計画が立てられる。
- 2008 年 9 月
書籍化の一環として、古新監督と宣伝用の映像作成の話をする。この時点では2,3分のパイロット版(宣伝用のコマーシャルのようなもの)のつもり。
- 2008 年 10 月
校舎の職員(全部の校舎をあわせると20人くらい) と「駿台で配布しているプリントが本当に映画になると(生徒が)喜ぶだろうね」という話になる。そこでパイロット版ではなく、短編映画化を作製する方向に話が傾く。(この段階ではせいぜい第1話の10分程度)
その後で、この職員からできたものをぜひ生徒達にも見せてあげたいという話を言われ、また、生徒達からも作ってくださいと言われて本格的に資金を投入して制作に入る。
- 2008 年 11 月
古新監督とも話し、短編映画化の方向で進む。映画にあわせキャストの性格を多少調整するなどの作業が開始される。この段階ではまだ第1話まで制作する予定。
- 2008 年 12 月
ある人から、「生徒を喜ばせてあげようという姿勢に感心した。ぜひ、生徒のために作ってあげなさい」と言われ、100万の援助をいただく。これによって、第2話まで制作する方向になる。
- 2009 年 2 月
「幸せ物語」第1話、第2話のクランクイン
- 2009 年 3 月始め
「幸せ物語」第1話、第2話の完成
- 2009 年 3 月上旬
生徒に見せるために作った映画「幸せ物語」が一部の講師による妨害行為によって、一部の校舎を除き上演ができなくなる。
- 2009 年 3 月
一般公開していく方向の模索を始める。
- 2009 年 4 月
書籍「数学の幸せ物語」の刊行を約束していただいた現代数学社の富田栄社長が病気のため他界する。存命中に書籍が完成できなくて申し訳ない気持ちになる。
- 2009 年 5 月
ある記念パーティで上映
- 2009 年 6 月上旬
「幸せ物語 09」の作成を開始する。
- 2009 年 6 月下旬
再び一部の数学の講師による妨害行為
- 2009 年 7 月
渋谷 uplink にて劇場公開を行う。
ここで、「幸せ物語」はもはや私と私の生徒達のものだけでなく、知らないうちに多くの一般の人にも愛される作品になっていったと実感する。
教室で配布する「幸せ物語」は生徒が「先生のプリント」とか「変なプリント」とか「いつも配っているやつ」のように「幸せ物語」とはなかなか言わないことが多い。しかし、この劇場では、一般の人が普通に「幸せ物語」と言っていた。それを聞いて「幸せ物語」が普通名詞化しているように感じた。
さらに、役者さんたちのこの作品に対する熱意も強く感じ取ることができ、第3話、第4話を制作することを決意する。
- 2009 年 8 月
「教育研究セミナー」にて上映
- 2009 年 9 月
第 3 話と第 4 話の制作の打ち合わせを始める。
- 2009 年 10 月
第 3 話と第 4 話のクランクイン
- 2009 年 11 月
中学、高校の教員対象の教員免許更新講座のテキストの一部として「幸せ物語」が採用される。
- 2009 年 12 月 4 日
FM浦和に「幸せ物語」の件でラジオゲスト出演
- 2009 年 12 月下旬
第 3 話と第 4 話が完成する。
- 2010 年 1 月 25 日
「幸せ物語 07」の話(これは映画の原作でもある) をまとめた書籍「数学の幸せ物語」(現代数学社) が刊行される。
- 2010 年 2 月 2 日
BS11サイトに「幸せ物語」の紹介が載る
- 2010 年 2 月 3 日
幸せ物語の公式サイトの発進
- 2010 年 2 月 7 日
BS11 にて第1話と第2話のTVバージョンが放映される。
- 2010 年 2 月 28 日
あるセミナーにて第3話と第4話の仮バージョンを公開
- 2010 年 6 月
アジア最大のショートフィルムの映画祭 ssff 2010 にて「幸せ物語」がノミネートされる。
5. 幸せ物語の物語
「幸せ物語」はようやくDVD化の道筋もつきましたが、ここまでたどり着くまでにはいろいろな「物語」がありました。最初は単純な数学の話でしたが、2年目からは小説としての話として凝りだしたこと。そして、そんな様子を見ていてくれた某神奈川県の進学校の高校の先生がいたこと。そして、さまざまな妨害を受けたこと。こんなことを少しずつ披露していこうと思います。つまり、「幸せ物語」の物語です。
- 「幸せ物語」の物語(1) (2010.3.27)
2008 年の 7 月に書籍化が決まったわけですが、これにイラストをつけようと考え、友人の勧めもあってためしに別の出版社である K 社に漫画家に依頼できるのかということとその値段を聞いてみることにしました。私は、毎週木曜に発売される漫画雑誌を見て
Y さんという漫画家に依頼しようとしました。
電話をかけると、電話の相手は親切な対応で「そのような用件でしたから、直接○○(雑誌名) の編集部に電話してみてください。編集部は音羽ではなく、練馬の○○にあるのです。電話番号を伝えますね。」という感じで、教えていただいた電話番号にかけました。今度は、編集部の人が出て丁寧な対応で、「どの漫画家に御用ですか?
漫画家一人につき担当者が一人ついているのです。その担当者につなげます。」と言われたので、私は 「Y さんでお願いします」と言いました。そして、Y
さんの担当者の A さん(30 歳くらい)につながりました。
A: 「もしもし。どちら様でしょうか」(丁寧な口調)
私: 「私は、○○の清といいます。」
A: 「もしもし、どういったご用件でしょうか」
私: 「えー、今度新しく本を出すことになりまして、実は Y さんにイラストをお願いしたいと思いまして。」
この、私の用件を聞いてからAさんの態度は急に硬化しました。
A: 「どのくらいあるんだ?」
私: 「ええと、5cm四方の絵を50点くらい描いてもらいたいと思いまして。」
A:「失礼ですが、あんた相場を知っているの?」
私: 「知人から聞いた話では、1 枚 1 万から 1.5 万くらいかと。もう少し出す用意はしています。」
A さんは「ふぅー」とはっきり聞こえるようにためいきをついて、
A: 「そんなんじゃ全然だめだよ。まず、最低でも 5 万は用意して。あんたにそれを出す余裕はあるの?」
私は、50万くらいの予算のつもりだったので、「あーやっぱり無理なんだな」と思いました。それで
私: 「そんなにするのですか。あっ、ならば、10 点ならよいですか? 5万×10点=50万なら払えます。」
Aさんは、一瞬「うっ」という感じになりましたが、続いてこう言いました。
A: 「あのねぇ。あんた漫画家をなめていないかい? 漫画家はやりたい仕事じゃなきゃやらないんだよ。」
私: 「では、やりたい仕事かどうかを判断してもらいたいのですが」
A: 「あのさぁ。漫画家はさー。完璧でないものは世に出したくはないの。それがいい仕事かどうかを判断するにはさー、あんたの小説を一度読まなきゃならないじゃん。そんな時間はないんだよ。時間を無駄にしたらその分も支払ってくれるの?」
私: 「どのくらいなんですか? 」
A: 「一日つぶせば20万と思っていてくれよ。あんたの小説がどんな話か知らないけどさ、一週間くらい時間かかるかもよ。ふふっ。」
私:「そうなんですか。」
A: 「俺はさ、決して取り次がないなんて言ってないよ。だがさ、漫画家だってこれで食っているんだから覚悟して来てくれなきゃな。」
ということで、話が終わり、その漫画家に頼むのは断念しました。
今の「数学の幸せ物語」(前編・後編) で漫画を描いている人はもともとは漫画というよりも、挿絵のようなものを書いている人で結局我が社で雇うことになり継続してお願いすることになりました。
- 「幸せ物語」の物語(2) (2010.3.28)
漫画家に断られてから1ヵ月後の2008年8月。元生徒の結婚式、ピアノの演奏の依頼、数学を研究している友人から誘いがあって講習と講習の合間にボストンに行くことになりました。数学者の友人からは「幸せ物語」について聞きたいということと、日本よりアメリカの方が関心が高いのではという話でした。3日間という短期間での往復です。
さて、観光以外の目的で海外に行くのはそれが初めてだったのです。行く前に英語のK先生にアメリカに行く話をすると、「飛行機はビジネスクラスで行きなさい」というのです。その先生の話では、航空会社は、ファーストクラスの人は神様、ビジネスクラスの人はお客様、エコノミーは荷物として扱われるというのです。私は、パックではなかったので、エコノミークラスでも往復30万以上を払っていました。試しにビジネスクラスの値段を見てみると70万ではないですか!
高々 12 時間の往復にプラス40万は高すぎると思ってビジネスクラスは断念しました。
出発する当日になりました。私は3日間なので小さなバッグを一つ持って、軽装で出かけることにしていました。実は当日の朝には箱根にいて午後1時ころ箱根を出て、2時半に家に帰り、4時半に成田に着かなければならないという強行スケジュールだったのです。そのスケジュールのことばかりが気になって、海外に行くのに、国内旅行の感覚で出かけたのでした。なんとかなるさくらいに考えていたのです。
成田エクスプレスを降りて、成田空港のチケットを受け取るフロアーに着きました。天井には大きく A, B, E が書いてあるパネルがあります。多くの人は奥の方にいるようでしたが、私はすいている一番近いカウンターに行きました。そこは赤いじゅうたんがひいてある快適なカウンターでした。じゅうたんの上を歩いて2,3
歩すると向こうから係員の人がやってきてこう言いました。
「失礼ですが、ファーストクラスの方ですか」
ここで、私は初めてここが自分が来てはいけないところであることに気がつきました。続いて、
「エコノミーの方は 『E』と書いてあるところに行ってください」
そこで、パネル『E』の下を見ると長い列ができているではないですか。私はここで格差社会を実感しました(笑)。
長い列を並び、チケット発行の自分の番が来てアルファベットを入力してチケットを受け取ろうとした瞬間、画面に「今なら、8万でビジネスクラスにできる」というメッセージが出ていました。私は、プラス40万を見ていたからというのと、K先生の話を思い出して思わず購入しました。しかし、このときあなたのクレジットカードの番号を入力しなさいと出たとき、私は海外旅行なのに普段そうしているようにカードを1枚も持っていないことに初めて気がつきました。
この後、「やばい」と思ってすぐに5万円ほどをドルに換えました。ここから先は、このお金がなくなったらもしかしたら海外から帰れなくなる状況でした。
ボストンまでの直行便がないので、シカゴ行きに乗り、シカゴで乗り換えてボストンに行く計画でした。飛行機の中ではビジネスクラスは大変快適です。飲み物、食事のサービスはもちろんのこと、機内では横になって寝ることができます。私は上機嫌でした。キャビンアテンダントが水をはじいて服に少しだけかかったときも、
「No problem.My clothes is always wet! 」
などと言っていました。しかし、楽しかったのはこの機内まででした。
この後、シカゴについてから大変なことが待っているとは少しも気がつきませんでした。
(つづく)
- 「幸せ物語」の物語(3) (2010.3.29)
(つづき)
みなさんはシカゴの空港がどのような空港かご存知ですか。シカゴのオヘア空港はいわゆるハブ空港の1つで、米国外から米国に入ることができるいくつかの空港の一つです。ここから米国内の地方空港に乗り継ぐように設定されているわけです。私は、「地球の歩き方」すら読まず、国内旅行に行くのりで行っていたので、羽田程度の大きさで、着いたら案内板を見て動けば簡単に乗り継ぎできると思っていました。ところが、想像を超える巨大空港だったのです。まず、ターミナル5に到着し、そこから無料のモノレールに乗ってターミナル1に移動します。そこからボストンに移動するスケジュールでした。
まず、飛行機がシカゴに着く間際になって、機内放送で「入国審査は直前に着いた飛行機で大変込み合っています。乗り継ぎの方はお急ぎください」と連絡がありました。私は、ビジネスクラスに乗っていたので、先に降りることができ急いで入国審査へと向かいました。すると、そこには大勢の中国人がいたのです。「あなた達は、お国の北京オリンピックで盛り上がっていたんじゃないの?」と言いたくなりましたが、後で聞いた話では、中国でアメリカ旅行が解禁されたばかりで、待ちかねていた中国人が大挙してやってきたのだそうです。あふれるばかりの中国人で、列は進みません。さらに悪いことに、中国の人は入国するときに書く用紙の書き方が雑で、ゲートで書き直しをさせられている人も多いのでした。
最初、乗り継ぎに1時間半をみていたのですが、あっというまに2時間経ち、乗り継ぎは諦めました。まだ、最終便があるから最終便で行こうと考えていたのです。
やっと私は入国審査を終え、ボストン行きの飛行機を探し始めました。どこかに掲示があると思っていましたが、先ほども説明したとおり、そこはターミナル5でターミナル1に移動しなければ乗れません。係員に尋ねて、どうやらここにはないらしいことにはすぐに気がつきました。
そのエリアを出るときに、簡単なチェックがありました。そこで、私は英語で「ユナイテッドでボストンに行きたいのだが、こちらでよいのか?」とたずねると、係員はよく聞き取れない英語で「その前にあっちに行って来い」という感じで指を指されたので、何だろうと思っていって見ると、トランク等の荷物を受け取る場所だったのです。私は「荷物なんてないんだよう」と言いたくなりましたが、だまって引き返し、もう一度ゲートに行きました。私は、3日間だけの旅行だったので、小型のバッグ1つだけで、それはそのエリアではかなり浮いていた姿のようでした。
今度は、係員は「何で、そんなに荷物が少ないんだ。いったいお前はどのくらい滞在するんだ?」と言いました。例えば、1ヶ月、2ヶ月の滞在や、1週間の滞在ならそのように答えられますが、滞在日数が少ないとこちらにいるのは何泊何日なのかよくわからなくなりませんか。1泊3日なのか、2泊3日なのか、それとも1泊2日なのか。私は、「ええと、日付変更線を超えてしまったから・・・・」と考え込んでしまったので、「何で言えないんだ!
あやしい!」ということになり、その係員から「お前の ID○○ (○○の部分はよく聞き取れませんでした) を見せろ」と言われました。実はこの後でわかったのですが、シカゴの人はパスポートのことをパスポートとは言わないのです。ID○○と言うのです。そのとき、私はID○○の意味がわかりませんでした。何度も何度も係員は
ID, ID, ID というので、私はたまらず周り中に聞こえるようにこういいました。
「 I have no ID!! 」
この瞬間、まわりは凍りつきました。他の係員も一斉にこちらに眼を向け数人は私の方に駆け足でやってきます。私は何が起こったのかわかりませんでした。そして、2人の係員が私の両腕を捕まえ、私を後ろ向きに歩かせ引きずろうとしました。私は理由がわからず、
「why? why? I have a ticket, I have my passport!」
と言うと、係員の一人が「お前 ID をもっているのか? 」というので、ここで私は「ID ってパスポートのことなの?」と聞くと、係員は「Yes」と言って私を解放しました。
ちなみに、私の知り合いで、このような場面で本当にパスポートをなくしてしまった人がいて、その人は内側にノブのない部屋にしばらく閉じ込められたそうです。(汗)
その後、私は、無事ターミナル5 を出て次のターミナル1に向かいました。しかし、一度狂った予定を英語が堪能ではない私が立て直すのは容易ではありませんでした。
(つづく)
- 「幸せ物語」の物語 (4) (2010.3.30)
ターミナル5を出た後、ターミナル1までは何事もなくたどり着きました。チケットを発行する有人のカウンターがあり、そこで待つこと30分。途中でトイレに行きたくなるものの、ここで列を離れては最終便にも間に合わなくと思い、根性で我慢。ようやく、自分の番がまわってきて、乗りなかった航空券を見せました。このとき、私の頭の中には
「日本だったら、個人の都合で遅れた場合は航空券は無効で、また一から買いなおさなければならなかったよな。そういえば、5万円分しかドルに換えられなかったけど大丈夫だろうか。」
と少し不安になりました。
しかし、今日の中国人の大群の話は、空港内に伝わっており、また、そのために遅れた人もたくさんいたので、たいした説明をしなくても代わりのチケットをくれました。これで、ボストンに行けると思ってセキュリティーチェックに入りました。ここでも、係員に
「お前、海外からの旅行客なのになんで、そんなに荷物が少ないんだ。怪しい!」
と言われ、靴を脱ぐのはもちろん、かばんの中まで厳しくチェックされました。
セキュリティーチェックを終え、ターミナル1の中に入りボストン行きの飛行機の出る場所まで移動し、あと30分で機内に入れるというときに私は妙なことに気がつきました。
「このチケット、何で裏に磁気情報がないんだろう」
そのチケットは単なる紙で、さらによく見ると書かれている数字はどう見ても席番号ではないものでした。あれ?と思って係員に聞きました。
「このチケットで次の飛行機乗れますよね。」
係員の反応は NO でした。その後に何と言ったか聞き取れずに、何度も聞き直しましたが、よく言っている意味がわかりませんでした。ここで、痛感したのは英語力の重要性です。片言の英語でよいだろうと思っていましたが、このような場面に出会ったときは、交渉するくらいの英語の力が必要です。交渉相手はいつもこちらのことを考えて言ってくるわけではないので、英語力はかなりいるんだなと実感しました。
「えーーーっ!!」
とうなだれていると、近くに同じような状況の中国人(もしかして台湾の人?)の20歳くらいの女の子がいて、涙を流して、「乗せて」と訴えていました。そして、同じような中国人の24,5歳の男性もいました。彼は楊君というらしく、私はなぜ乗れないのかと彼に聞いたらやさしい英語で説明してくれました。楊君の説明によると、私の持っていたのはキャンセル待ちのチケットらしく、このままでは乗れないというのです。
私の乗ろうとしていた飛行機は最終便ですので、これを逃すと明日になってしまいました。楊君に「明日になったら乗れるのか」と聞くと、それはわからないということで、彼も、僕も困ってしまいました。
飛行機の搭乗の時間になり、乗れない私と楊君と中国人の女の子と他20名くらいが、がっかりとその場でうなだれました。そして、楊君はどこかに言ってしまいました。
「では、どのようにしたら明日乗れるのか?」
と聞いても、係員の女性の英語が何を言っているのかさっぱりわからず。明日になったら乗れるかどうかもわからずでした。
私は、ここで自分が相当な危機に直面していることを実感しました。普段は安全な場所で気軽に会話し、親切な人にも囲まれていることを改めて感じ、そして、今は「本気を出して真剣にここから離れることを考えなければ」と思いました。
「でも、係員がどうすればよいと言っているかわからないし」
同じ係員に何度も同じ質問をすると答えてくれなくなるので、再度聞くこともできず困っていました。このとき、私は教え子の結婚式に出席するために来たんだということを思い出し、
「そうだ、とりあえず電話をして、今晩ボストンには行けない」
と言っておこうと考えました。私のその時点での電話は、海外からでも日本と同じようにかけられるものだったので自分の電話から連絡をとり、少なくとも今日はいけないことを伝えました。教え子はすでにボストンの空港について待っていました。
「あーあ。どうしよう」
と思っていたとき、私が自分の携帯から電話をかけている様子を見ていた日本人の50歳くらいの女性がいました。その方は中野さんという方で、自分もさきほどの中国人の大群のために飛行機に乗れなくなってしまったのだと言っていました。そして、
「ねえ、お兄さん。その電話貸してくれない。私、今、公衆電話をかけるための小銭がないのよ。アイオワにかけたいんだけど、小銭がいっぱいないといけないの。20ドルでどうでしょう?」
私は、人のよさそうな女性だったということもあり、「どうぞ」といって差し出しました。すると、その女性は流暢な英語で相手の方と話すではないですか。
ここで、私は一つの案を考えました。
(つづく)
- 「幸せ物語」の物語(5) (2010.4.26)
私は、この山本さんという女性に話しかけました。
「あのー、20ドルはいりません。その代わりといっては何ですが、私は係員の言っている英語がよくわからないので困っているのです。それで、一通り通訳してもらえませんか?
」
山本さんは、「喜んで」ということで引き受けてくれました。そして、まず、カウンターにいた先ほどの女性と話をしました。彼女は、「彼(私のこと)も今日の中国人の大群の犠牲者なんだ。」ということと、「彼は何故乗れなかったのか。明日になったら乗れるのか」と聞いてくれたようです。それで、山本さんは今度は私の方に向かって言いました。
「彼女が言うには、あなたはこれ以外にもチケットか半券をもっていたはずだ。それがないので、とりあえず後回しにした。」
ということでした。それで、私は、前のチケット(乗るはずだった便のチケット)はチケットを発行するところで係員にとられましたといい、それを山本さんが伝えていると、もう少し年配の男性の係員の人が来て、
「ああ、あなたも今日の中国人達の犠牲者だったのか。他にもたくさんいるんだよ。それで、空港内(?)のホテルはいっぱいだから、シカゴ市内のホテルを紹介してあげよう。」
と言いました。私は、「ということは、これからシカゴ市内のホテルに行くの? うーん。明日の朝に戻ってくる自信ないなあ。ここで、朝まで待ちたいなぁ。」と思っていると、その男性はさっそくホテルを探し電話している様子。
で、見つけたといい、ここに行けと言って宿泊の割り引きのチケットをくれました。ここまで、山本さんが通訳をしてたのですが、その山本さんも「これはありがたい行為よ」というので、それに押されてそのホテルまで言ってみることにしました。
ここで、山本さんにお礼を言って別れました。
私は、その男性の係員にどのようにシャトルバス乗り場に行けばよいのかを尋ねました。すると、
「まっすぐ行け。そして階段を下りろ。出口があるから出て曲がれ。あとはわかる。」
と言われました。
総じて、向こうの人の案内は大雑把だったような気がします。私もせっかちなのか、まっすぐ行って階段を降りろと言われても、どのくらいまっすぐ進めばよいので、とりあえず最初に見つけた階段を降りました。
実は、それは出口ではなく、となりのターミナルにつながる長い廊下だったのです。別のターミナルに着いたときには夜も10時をすぎ、係員は後片付けをしておりこちらの質問になかなか答えてくれません。結局、そのターミナルを端から端まで歩いたもののバス乗り場のようなものは見当たらず、もといたターミナルに帰ってきました。で、先ほどよりも先に今度は別の降りる階段があるのを発見しました。「これだ!」と思って階段を降りて出口に向かいました。
出口に向かう途中、1箇所私が出た方向にしか開かない(つまり一方通行の)自動ドアがありました。その自動ドアの近くには黒人の見張り役のような人が独りいて、その自動ドアを監視しているようです。私は、その自動ドアを出て少し歩くと、また、遠くまで続く廊下と、近くの外への出口が左に見えました。
「何だか、ホテルに行くのは面倒になってきたなぁ。やっぱりやめようか。」
と思って、さきほど山本さんと別れたところに戻ろうとしました。当然のことながら、途中に一方通行のドアがあります。実は、それはセキュリティーエリアと外部を分けるドアだったのです。つまり、そのドアから中はセキュリティーチェックを受けた人だけが入れるエリアなのです。そのとき、私はそのことには気がつかず、そのドアの前に立ちましたが、ドアは開きません。しかし、私は早くさっきの場所に戻りたいという気持ちでした。
すると、中から誰かが出てきたではないですか。やったーと思い、ドアが開いた瞬間中に入り、小走りでさきほどの場所に向かいました。
しかし、後ろから誰かが追いかけてくるではないですか。私は、よくわからなく逃げました。しかし、先ほどの番人をしていた大柄な拳銃をもった黒人の人がこちらに向かって何か大声で叫んでいるようです。拳銃のことがあったので、私は手をあげてその人に捕まることにしました。
(続く)
- 「幸せ物語」の物語 (6) (2010.5.18)
その番人は、捕まった私が、少し前にそのゲートから出て行った日本人であるを覚えていました。そこで、ゲートを指差し出て行けというので、しぶしぶ外に出て行きました。
その番人に聞いても、「まっすぐ行け。左に曲がれ」というのですが、どれだけ進んでから曲がればよいのかわかりません。
私はせっかちなのか、すぐに曲がって外に出ました。目の前には、道路だけ。そこに、黒人の人が二人道路で交通整理をしていました。私はその黒人の一人にホテルのシャトルバス乗り場はどこかとたずねたところ、遠くを指差しました。すると、遠くに確かにホテル(でも泊まるのはそのホテルではない)の明かりが見えます。「で?
どうやって行くの?」と聞くと、一人が「ついて来い」というので、途中まで暗闇の中を歩きました。どうやら私は正規のルートを歩いていないようです。原っぱの中を歩く感じで、近くまで行くと「もう大丈夫」と言って黒人と別れました。
無事、シャトルバス乗り場に着くと、先ほどの中国人の楊君に再び会いました。「やあ、また会ったね。」と軽く挨拶。彼は、その後別のバスに乗って行ってしまいました。
さて、ここで今度は新たな問題が起きました。先ほど、空港の係員の人からホテルの割引チケットをもらい、予約まで入れてもらったわけですが、なかなかそのシャトルバスが来ません。他のバスを見ていると15分〜20分周期くらいで循環しているのですが、1時間以上待っても来ないのです。そもそも、ホテル名は、その割引チケットに書いてあるのですが、字が汚くて読めないのです。ホテル名は
3 つの単語からできていました。少しすると、その単語のうち、1つが一致するバスがやってきました。そこで、運転手さんに聞いてみると、「うちではないなあ。でも書き間違いかも知れないから、乗ってみろよ。ホテルについてからカウンターで聞いてみるといいよ。」というので、ホテルの確証のないままバスに乗りました。
ホテルはバスで30分くらい。どこを走っているのか全くわかりません。途中、川に沿って走っているのはわかりましたが。私は「これで本当に明日の朝、空港に戻ってこれるのだろうか」と乗ってから不安になりました。「もしかして、もう一生シカゴから出られないかもしれない」とも思いました。
ホテルに着きました。そこで、運転手は私を連れてホテルのフロントに連れて行き、運転手は「この人(私のこと)が、ここのホテルを取ってあるかも知れないというんだ。調べてくれないか?」と言ってくれました。応対をしてくれたのは、大柄なとてもやさしく親切な黒人の人でした。
まず、名簿を調べ、「あなたの名前はない。そのチケットを見せてくれないか? 」というので、ホテル名を書いたチケットを見せました。しかし、そのフロントの黒人の人もその字が読めないようです。で、似たような名前のホテルに数件電話してくれました。ところが、私の泊まるホテルは見つかりませんでした。私は、お礼を言って、もう一度シャトルバスに乗って空港に戻ろうとすると、
「泊まるところがないんだろ。うちに泊まっていけよ。」
と言ってくれました。私も疲れていたのでそれがよいと思い、お願いしました。その後、黒人の人はもう一度チケットを見せろというので見せると、チケットには「89ドル」と書いてあったので、この値段の部屋を貸してあげるよと言いましたが、なかなか見つかりません。
「かわいそうだから、110ドルの部屋を89ドルで貸してあげるよ」
と言ってくれましたが、そのとき、後ろから女の人がでてきて、「それはだめよ」と言い、結局95ドルの部屋を90ドルで泊まることになりました。契約成立で、チェックインの手続きを始めると、黒人の人は「Your
ID?」というので、今度はパスポートのこととわかったのですんなりと。しかし、次に「お前のカードを見せろ」というので、私が「持ってこなかった」というと、「お前、それでよくここまで来たな。海外旅行なのに正気か?」と言って驚かれました。
自分の部屋についても時差の関係で眠くありません。テレビをつけると北京オリンピックがやっていました。予定外のシカゴ宿泊と、本当にシカゴを脱出できるのかなあと不安になってきました。
(続く)