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今年の東大入試に期待すること

今年もあと2日で国立大学の2次試験が行われる。今年は、いわゆる「ゆとり世代」の最後の入試である。

実は、東大をはじめとする一部の国立大学の入試はこの20年くらいはそれほど易しくはなっていないで、ある一定の難しさをキープしている。それに対し、早稲田理工、慶応理工・医の問題はかなりやさしくなって、今では、これが私立の雄なのかと疑いたくなるレベルである。もちろん、早慶には「易しくした理由がある」と言うのだろうが、それは私はだいたいわかっている。

私は、今の日本の高校生の学力を牽引しているのは、文科省ではなく東大、京大の入試問題を作っている人達だと考えている。そう考えるには理由はいくつかあるが、その一つとして「数学A問題」があるだろう。
「数学A問題」とは、文科省は新課程の数学Aは
「場合の数と確率」「整数の性質」「図形の性質」
から2項目を選択し、それに2単位を与えるとしているのに対し、主な大学は
「数学Aの3項目すべてから出題する」
としている。
文科省は2項目でよいと言っているのだから、高等学校では2項目を学習すれば数学Aの単位をもらえる。しかし、大学側が数学Aは3項目必要というから、ほとんどの受験校では3項目を学習せざるを得ない状況である。つまり、
「高校側は、文科省の言うことよりも大学側の言うことをきいている」
という状況なのだ。
これは文科省としてはさぞかし面白くはないだろう。そのせいもあるのか、最近の文科省の「大学入試改革」は、主導権を自分たちの方に持って来ようとしているようにも見えなくもない。

このように、文科省がいくらカリキュラムを変更しようとしても大学側が「○○を出題する」と言えば、受験生は○○を勉強せざるを得ないのだ。かつて京大が微分方程式を出題したように。
このように、今、日本の高校数学のレベルは大学入試レベルによって決定されているようなものであり、影の「支配者」は大学側なのだ。

先ほども述べたように、東大をはじめとする一部の国立大学は「ゆとり世代」に対しても入試問題をやさしくしていない。実はこのことは大学側にとってはリスクのある行動なのだ。それは、問題が難しいと低得点に多く分布し、受験生の学力を振り分けるはずの入学試験が「入学試験」としては機能しなくなるからである。そして、「東大は数学を勉強しなくても合格する」というイメージを受験生に持たれてしまう。実際、東大の理科一類は120点満点中10点程度でも合格する例はある。そのような学生は、大学に入っても授業についていけないのが普通であり、ときには周りの足を引っ張りかねない。
こういう場合、大学によっては、そのような学生のために教育プログラムを組んでフォローしたりするところもある。これは大学にとっての負担である。
しかし、大学入試問題が難しければ、それを目標に勉強するわけで、勉強してきた学生のいくらかはある一定の水準を保った学力を持っている。
「ゆとり世代は本当に、学力が低いのか?」
と言う問いに対して、私は
「必ずしもそうではない。むしろ、変わっていない。」
と答える。これはこれまで東大などの一部の国立大学が入試レベルを下げなかったからである。(ちなみに東大は他教科は以前よりかなり易しくなっている)
こうしてきた東大・京大等の入試が日本における教育に果たした役割は非常に大きい。
文科省がどんなに骨抜きなカリキュラムを作ろうとこれらの国立大学が一定のレベルの問題を出題している限りは日本の学力はある程度維持できるのだ。

最近は、文科省が大学入試についても縛りをかけようとしているが、本当に文科省の思うように制限してしまうと、今度は本当に日本が沈んでしまうだろう。

さて、いよいよ、2日後にせまった国立大学の入試であるが、私個人としては一定水準を保った入試問題を期待してその問題発表を待つこととする。

This entry was posted on 日曜日, 2月 23rd, 2014 at 8:33 PM and is filed under 教育, 数学. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0 feed. You can leave a response, or trackback from your own site.

9 Responses to “今年の東大入試に期待すること”

  1. 社学者 said:

    まず問題が難しいことが正しいのだ、というのはおかしいのではないでしょうか。
    第一に難化を得点分布が左に移動すること、と定義すると難しい問題は相対的に数学が得意な人間を不利にするといえます。

    第二に大学生や社会人としての適性と受験学力は別です。これが別でないなら推薦入試やAO入試が機能していることからも明らかです。

    第三に現状で難しい問題を解けるようになるための学習コストが社会全体で収支があっているかはなはだ疑問です。のべ浪人年数を増やしていけば解けるようになる人間は単調増加していくでしょうが収支は単調増加はしないでしょう。また、こういった訓練が特筆に値するほど役に立つならそういった訓練を施すサービスが大学生、社会人向けに誕生するのではないでしょうか。現状そのようなものは英語とSPI対策程度にとどまっていて2次試験型記述式数学の社会的意義は甚だ疑問です。

    アメリカの一流私立大学に難しい必修の二次試験は存在しませんが今のところアメリカが沈没したりはしていません。

  2. Sei said:

    貴重なご意見をありがとうございます。

  3. minaken said:

    アメリカが今でも沈没せずにいられるのは、アメリカ人自身が社会的に頑張っているからでなく、

    沈没しそうになれば、イラク戦争のように戦争をしかけて他国から石油などを略奪したり、
    移民を低賃金で働かせたり、
    日本のような言いなりになる国と貿易してるからだと思うんですよね。

    僕も数年後の国立大学の二次試験を廃止し推薦だけにするというのは反対してます。理由は学力低下だけでなく、

    アメリカのレガシー制度のように、家柄や寄付金などの理由で合格が決まるようになる未来が見えてしかたがないからです。
    裏口入学が堂々と表口入学になる未来が見えてしかたがありません。

    字もまともに読めないブッシュ元大統領のような人がイェール大学やハーバードビジネススクールに合格するようなことが良いことだとは思いません。
    大学はビジネス機関ではなく教育研究機関である以上、大学経営は教育研究でお金をかせぐべきであり、裏口入学などで稼ぐべきではありません。

  4. Sei said:

    貴重なご意見ありがとうございます。私も結構その話には同意します。

  5. 社学者 said:

    ハーバードの方が教育・研究において優れているのでアメリカの私立を批判するのであれば大学が教育研究機関と考えるのはおかしいと思います。教育および研究は入試の従属物と考えるべきではないでしょうか。

  6. minaken said:

    それでは、言い方を変えることにします。
    大学はビジネス機関ではなく、研究・教育機関であるべきだ、と思っています。といっても法律的にも大学は教育・研究の機関と定義されてたはず。

    大学の名のため経営のために、金づるの学生枠を設け、
    その学生を踏み台にして、他の研究者、学生の研究・教育資金を確保するようなマネはしてはならないと思ってます。たとえ互いの利害が一致してもです。

    大学は入学させた学生は全て同じように学問を修める者として扱い、それが適う環境を与える場でなくてはならないと思ってます。その場を手に取るかどうかは学生が決めることですが。

    しかし、レガシーのようなもので入学した学生に学問を修められるとは思いませんし、実際にそうでしょう。
    大学はコネを作る場でもあるので、学力はあるが貧乏な学生が、家柄やお金持ちの学生とコネを作れるからレガシーは良いと考える人もいるようですが、僕はそうは思いません。
    大学は研究・教育機関なので先ずは研究と教育があって、その下に人脈づくりコネづくりがあるべきと思ってます。

    そもそも家柄や寄付金で合格するようなことがあれば、貧乏だけど学力の高い学生が合格できません。

    教育により学生を育て、その学生が研究者となり、その研究活動で特許なり発明なりで研究資金、大学運営資金を稼ぐべきだと思ってます。

    裏口入学で稼いで得た金で教育・研究を充実させるなんていうビジネス的な発想には同意できません。
    そしてその裏側に、踏み台にされてる金づる学生がいても良いというのにも同意できません。
    恥ずかしいけど仕方がないと言うならば、まだ同情の余地もありますが、声を高らかにして言うのは到底理解ができません。
    二次試験を廃止し推薦で決まるというのは、その声を高らかに言うのと同義だと思ってます。

    大学の名を売るために学生があるのではなく
    学生のために大学があるべきだと思ってます。

  7. 匿名 said:

    大学を就職予備校だと考える人が多いから,学力試験でなく推薦やAOが正しい,と主張するおかしな人が増えるんですね。

    それは,音大の入試に絵の試験を課すようなものです。たしかに,音楽をやる人が絵もできれば理想かもしれませんが,かといって音楽の才能がある人を,絵ができないからといって蹴落とすべきではありません。それは社会の損失です。

    そういうことが起きると何が問題かといえば,「能力もないし,努力もしない人」が「良い」大学に入れてしまうこともそうですが,「能力がある人,努力する人」が「良い」大学に入れなくなってしまうことです。

    同様の趣旨のことはminaken氏も書かれており,たぶん研究や教育に携わっている人の多くは同じことを考えているでしょう。社学者氏は,私が述べたところの「大学を就職予備校としか考えていない人」なんでしょうなあ。『大学生や社会人としての適性と受験学力は別です。』はたして,学問をするのに,社会人としての適性が必要なんでしょうか(反語)。

  8. said:

    英語と理科はずっと難化してます。
    やさしくなってるのは古文漢文理論化学くらいです。

  9. 匿名 said:

    >ちなみに東大は他教科は以前よりかなり易しくなっている

    英語の難化っぷりはすごいですね。G1のボーダーラインが以前は100点付近だったのに最近は90さえ切るようです。これは学力低下ではなく難化の影響だということは解いてみればわかります。
    近年英語重視の風潮があることを踏まえてなのでしょうか。あるいは文科省などが提唱する「コミュニケーション重視」への抵抗なのでしょうか。ちなみに東大英語はリスニングも難化していることから決してコミュニケーションを軽視してはいません。
    理科は、あまり多くは語りませんが、何十年も前の受験生が今の問題を見たら、分量の多さに度胆を抜かれるでしょう。

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